──サッカーをここまで続けてきた理由とは?
 
「理由がないからやってるんじゃないかなぁ。ただ好きなんですよ。ボールを蹴り合って点を入れるだけのシンプルなスポーツなんだけど、その単純さがいい。単純だからこそ奥がある。もちろん技術的には奥に行けないけど、気持ちのなかでは奥に行けるというのがあって、20代のときのサッカーと、いまの50代でのサッカーって肉体的にはぜんぜん違うでしょ。でもいまの僕は50代のサッカーってのを見つけようとしている。
 
 たとえば走り方がみっともないとか負の要素を、自分のなかで見つけていくのが楽しみだったりする。ひとによっては迷惑な行為かもしれないし、ある意味では“窓際サッカー”っていうんですか(笑)。でもこれもサッカーだと思うと気が楽になるし、楽しめる。大阪の心斎橋にグリコの看板があるでしょ。あれと一緒。心斎橋にあるから、あの看板はグリコなわけです。そこに大杉さんがいるから安心できる、笑いのタネになる。ある種これって快感なんですよねぇ」
 
──戦術論や技術的なことを語るよりも、シンプルさがまずは大事だと。
 
「映画と一緒で、僕は語るよりもやりたいほうなんですね。やっぱサッカーって面白いよねって言い続けたいんです」
 
──ちなみにこれまでの俳優人生で、サッカーの監督や選手の役柄などは?
 
「監督はないけど選手はありますよ。ちょうどJリーグができた頃だから、10年前か。大映が作った新映画天国の一環で、タイトルはずばり『仁義なきイレブン』(笑)」
 
──え? 極道モノですか?
 
「よく分かりましたねぇ(笑)。サッカ-を通してヤクザが更生していくいう簡単な内容でしたね。椎名桔平くんや川平慈英くんなんかも出てて、けっこう評判は良かったんですよ。企画者は鰯クラブのメンバーでしたけどね。レンタルしてみてください」
 
──観る側としては? 最初に憧れた海外のプレーヤーだと誰になりますか?
 
「僕はね、エウゼビオが最初です。これも兄貴が好きでね。写真を大事に持ってたんですよ。それを僕が受け継ぐときに『このひとは神様みたいなストライカーなんだ』と聞かされて、もう崇拝してましたよ。プレーは観たことないんですよ。それでも憧れてました。
 
 その次が、ソビエト時代のキーパーのヤシン。なんだか右のコーナーポストから左のコーナーポストまで1回で飛んじゃうんだって聞かされて、それこそ伝説ですよ(笑)。でも情報がない時代だったから、そんな超人伝説ばっかり信じてましたね。世界はすごいなぁって。それからは徐々にテレビ放映もされたりしましたから、細かくはたくさんいますけど、当時はそんなおバカな時代でしたね」
 
──初めてのワールドカップとなるとどうでしょう。
 
「初めてちゃんと観れたのは82年ですかねぇ。息子が生まれたばかりだったからよく覚えてるんです。ダイヤモンドサッカーしか知らなかったのに、世界のいろんなサッカーをお茶の間で観れるようになったんですから。ブラジルのカルテットとかすごかったですよ」
 
──日本があの舞台に立つなんて想像もできませんでしたか。
 
「まったく別モノに考えてましたよ、正直言って。90年代に入ってからようやくじゃないですかねぇ。85年にも一歩手前まで行きましたけど、やっぱりプロリーグができてから、これは狙えるぞって思えるようになりましたから」
 
──97年の『ジョホールバルの歓喜』のときはどうされていましたか?
 
「もう家で狂喜乱舞。ウチは一家揃ってフリークですから。サッカーに関してはカミさんのほうがアツイですし、代表戦はユニホーム着て正座してはじまりますから、ウチは(笑)。だから岡野(雅行)選手のゴールが決まったときは、ジャンプ、ジャンプ、ジャンプ。いつまで跳ねてんだってくらいでした。だって(ワールドカップに)出れるんだもんって。そう興奮してるだけで、じっさいはぜんぜんリアリティーがなかったんですけどね」