ブラジルW杯が終了して1年と1ヶ月。日本サッカー界は、そこから前に進めていない。なにより日本代表に大した収獲がない。アジアカップベスト8。

 直近では、シンガポールにホームでまさかの引き分け。東アジアカップでも最下位に終わった。後退する姿ばかりが露見している。監督がハリルホジッチに変わっても、悪い流れに歯止めは掛かっていない。いっそう加速している様子だ。

 原因は選手にも、監督にもある。しかし、両方に深く関与しているのはサッカー協会だ。期待の若手が出現する頻度が減ったことは、協会が作り上げた育成プログラムが、成果を挙げていないから。監督がよいサッカーを披露できずにいることも、協会の監督を選ぶ能力に起因する。そう考えるのが本筋だ。

 悪いのは監督、いや、監督ではなく選手だと巷ではいま意見が2つに割れている。二者択一問題のようになっていて、協会に批判の矛先を向けようとする人は少ないが、責任の本来的な順番を言えば「協会>監督>選手」だ。

 問題の源泉は協会。その協会にとって、嫌なのは選手批判より監督批判だ。ハリルホジッチを選んだのも、アギーレからハリルホジッチへの監督交代を実行したのも協会。つまり、監督と協会は、選手と協会より直接的な関係で結ばれている。責任の所在を二択にするなら、選手か監督かではなく、協会か監督かであるべきなのだ。

 しかしメディアの協会等、所轄の競技団体への追及は、サッカーに限らず、たいがいにおいて甘い。これまで数々の問題を引き起こしてきた過去があるにもかかわらず、だ。

 顕著な例は、日本バスケットボール協会。国際バスケットボール連盟から競技団体としての資格停止という重い制裁を受けため、その組織の中にある代表チームは、つい先日まで、リオ五輪予選への出場が許可されないという最悪の事態に陥っていた。日本バスケ協会ダメだなーとは、多くの人の感想だと思うが、この責任は、早い段階から問題に目を背けてきたメディアにもある。僕はそう思う。

 国内に2つのメジャーなリーグ(NBLとbjリーグ)が存在すれば、近い将来、そうした事態に発展することは、少し事情に詳しい者なら読めるはずなのだ。

 新国立競技場問題もしかり。まず、ヤリ玉に挙がったザハ・ハディドさんは、あくまでも設計者、デザイナーだ。「協会>監督>選手」の考え方に従えば、まぁ「選手」だ。あのデザインにケチを付けることは、本質的な批判の意味を成さない。「協会」に当たる文科省やJSC(日本スポーツ振興センター)に、矛先が向かったのは結局、最後の最後になってから。その仕切りの杜撰さについて、メディアはもっと早い段階で気付くべきだし、追及しているべきだったのだ。赤信号みんなで渡れば怖くないではないが、批判は世の中の反応とまさに同じ歩調。先んじてはいなかった。よって、世の中の関心は、それまでデザインばかりに向くことになった。結果的に、文科省やJSCを助けることになった。問題をより深刻化させることになった。
 
 サッカー界は、他に比べて自由に何かを言える風土がある。外国と接点が多い競技。そのスタンダードをメディアもファンも身近に感じることができるからだ。協会にしても、何か言われることに割合、慣れている。他に比べて寛容だ。しかし、多くのメディアは何か言える環境が与えられているのに、それに対して二の足を踏む。
 
 代表関連の問題は、それでもまだいい方だ。外国のスタンダードには遠く及ばないとしても、日本の「その他」には勝っている。批判精神は存在するが、Jリーグの現場では、日本のその他と同じ現象が起きている。各クラブと、それを取り巻く地元メディアの関係は、まさに旧態依然。日本的風土に覆われている。
 
 バスケットボール協会を蘇らせたのは、あの川淵三郎元Jリーグチェアマンだが、最も改善すべきは、各競技団体とメディアの健全な関係だと思う。

 政治にまつわる問題について、最近、言論の幅は確実に狭まっていると憂慮する声をよく耳にするが、それはスポーツ界ではとうの昔から常態化している。言論の幅が広かった時代があったという話を聞いたことはない。体質になっているのだ。

「最近の選手は気迫が足りない」と、OBの評論家が言えば、そうだ! と、膝を叩きたくなる人は多いと思う。その選手批判は、威勢のいいものに聞こえるが、「協会>監督>選手」に従えば、威力そのものは高くない。弱いものイジメにもなりかねない。本来、矛先を向けられるべき人にとって、話題を別の方向に反らせてくれる歓迎すべきものになる場合が多いのだ。

 選手20%、監督35%、協会45%。協会>監督>選手の割合を、数字に示してみれば、こんな感じだろう。批判はこの割合を踏まえて行うべきなのだ。

 選手批判が巷に全く起きていないなら、それでは割合的に好ましくないと、選手批判をすればいいし、協会批判の割合が少ないなら、同様な考えに基づき協会批判をすればいい。それがメディアに求められるバランス感覚だと思う。突くべきポイントを誤ると、メディアも同罪になりかねない。従来のままでは、言論の幅は狭くなるばかりだと思う。