【問1】
[DOMMUNE/坂上忍/銭湯絵師見習い]
比較的最近ニュースで話題になった3つの単語、これらに共通するキーワードをふたつ答えてください。

【模範解答】
「炎上」と「彫刻」

――ふざけた書き出しで失礼。こちらの【模範回答】、恐らくほとんどの方は「“炎上”はわかるけど、“彫刻”は意味不明だろ!」と思われるのではないだろうか。

普通に考えれば、たしかに意味不明だ。どれも大きな炎上に関わる単語ではあった、しかし彫刻にはまったく関係がない。だが不思議なもので、世の中にはこう考える人も、いるのである。

「ツイッターの炎上では、彫刻が焼きあがるんです」

こう語るのは、現代美術家の柴田英里さん。「フェミニズム界隈の指定可燃物」を自負し、ジェンダー問題を中心に、いかにも炎上しそうな話題を日々ツイートし続けている(実際にしばしば炎上もする)、奇特な人物である。今回は彼女にインタビューしてきた。

“炎上”や“クソリプ”にウンザリしている? そんなあなたに朗報。「炎上彫刻」の世界を知れば、そうした不快な事象が途端に味わい深い、魅力的なものに感じられてくるはずだ。もうすぐ平成も終わる。殺伐としたネットの空気にも、おさらばしよう!
撮影/水上俊介
取材・文/飯田直人
デザイン/桜庭侑紀

まず、炎上彫刻とは「言葉」である

インタビューの前に、大事な前提をひとつだけ確認したい。「炎上で彫刻を焼く」という奇妙な考えは『欲望会議』(角川書店)という本を読んで知った。窯でセラミック彫刻を焼成する際、炎の中で作品に生じる変化を彫刻家はほぼコントロールできない。この本の中で、柴田さんはそう説明した上で、こんなふうに書いていた。

「炎上している状態は自分の発言が自分のコントロールを離れて、いくら弁明しても話なんて聞いてもらえないし手に負えません。怒れる人たちは炎のようなものです」
私が造ったある形(言葉)が炎上の熱によって変質する。ある言葉が触媒となり、多くの感情を呼び寄せ、呼び寄せられた感情の集合が形になる。ログで残ったものがいわば『彫刻』です

つまり、「炎上彫刻」というのは、「言葉」の集合体なのだ。

炎上には、自然現象的なスペクタクルがある

彫刻でも炎上でも、柴田さんにとっては“コントロールできない状態”が重要な要素なようですが、それはなぜでしょうか。
柴田 それは…、単純に私が興奮するからですね(笑)。山火事とかって壮大で、見ていて興奮したりしませんか? 炎上にもそれに近い、恐ろしいけど美しい自然現象的なスペクタクルがあるなと思ってます。
自然現象的なスペクタクル…。柴田さんは社会派な印象だったので、意外ですね。
柴田 事物が人間の管理外に移行してしまう瞬間、剥き出しの現実が垣間見えるような瞬間に美しさを感じるんですよね。炎上の中で、自分の言葉が他人に捻じ曲げられていくのもそうだし、論理的な批判をしていたはずの人が感情的になって、隠していた本音や欲望をうっかり出してしまうのも同じです。そういう過程は見ていて気持ちがいいですね。
怖っ。そのお面どこから出してきたんですか!(笑) それにしても柴田さんはやっぱり好戦的というか悪意があるというか、人の感情を刺激しようという意図を持ってツイートされてるんですかね。
柴田 単純にケンカが性癖的に好きというのはありますね。だけどそれ以上に、炎上すると似たような怒りのリプライが大量についたり拡散されたりしていく、その様子を見るのが面白くてやってます。今現在の“社会の雰囲気”的なものが言葉になって、目に見える形で凝縮されていくような感じがして。
なるほど。
柴田 今、フェミニズムとか社会規範とかを持ち出して「正しさ」を主張する人って、多分に恣意的だと思うんですよ。客観的な顔して、実は「こうあるべき」という主観を“布教”しているだけじゃないかって思うんです。そもそも私がツイッターで炎上しているときに言っている内容って、元来の左派フェミニズムから見ればそこそこ王道なはず。なのに、フェミニズム嫌いから以上に、フェミニズムにシンパシーを持つ人たちから多くの批判が寄せられる。そういう現状が面白いんです。

つまり、批判の論拠となる思想が顧みられていないまま、正しさの印籠としてフェミニズムが持ち出されている。だから、もっともらしい正義や建前の裏の本音を暴きたい。ある言葉を触媒として燃やすことによって、それまで可視化されていなかった「規範」や「スティグマ」をあぶり出したい。それを提示して「みんなどう思う?」と問いかけているつもりです。
非常にざっくり言ってしまえば「正義」っぽいを言葉をちゃんと分析的に観察できるようにしている、ということですね。
柴田 まあ、そういう言い方もできますね。ドイツの芸術家のヨーゼフ・ボイスは、「人間は意志を持った生命体であると同時に、社会という彫刻を形成する彫刻素材である」とし、現代人に自分自身の存在の意味を問わせ、社会をつき動かす個々人の行動をうながしました。彼は同時にそれをある種のユートピア的神話に接続していましたが、その中で思い描かれている人間像は没個性で、妙に教条主義的であったりする。私の「炎上彫刻」は、ボイスの言う「社会彫刻」の欠陥を逆照射しようという目論見でもあるんです。まあ、炎上によって仕事上の不利益も被っているんですけどね(笑)。

炎上彫刻は、イコノクラスムの過程で立ち現れる

さて、実際には言葉の集合である炎上ですが、具体的にどの辺りが彫刻的と言えるのか、くわしく伺えますか?
柴田 彫刻といってもいろいろありますが、一種の政治的な「モニュメント」として、ツイッターの炎上は公園や街中などの公共圏にある「銅像」に近いなと感じています。よく炎上するジェンダー問題にしろ、表現規制の問題にしろ、世の中の何かに対して「許せない」と憤る人は、無自覚であれ、「こうあるべき」とする理想や政治性を持っているはずですよね。
まあ、恐らくそうでしょうね。
柴田 一方で公共圏の銅像は、慰安婦像やレーニン像はもちろんのこと、そのへんにある裸婦像なども含め、ナショナリズムや政治的なイデオロギーとは切り離せない芸術ジャンルです。公共圏の銅像は美術館や博物館の展示物などとは違い、雨でも夜でも不特定多数が恒常的に鑑賞できる。だからこそ、大衆に訴えかけ、大衆を教育、鼓舞し導いていくという目的を持たせられやすい。
日本の街中にある裸婦像は第二次大戦後、戦前の軍国主義からの脱皮を象徴的に表すものとして造られてきたものだ、という話題は本特集#4銅像編でも触れました。
柴田 つまるところ、銅像も炎上も、どちらも人間の感情や政治的なイデオロギーによって形づくられるんです。その共通性は大きいですね。あと物質としての存在感も似てます。銅像の素材であるブロンズはかなり強固で長持ちするものですが、ツイートのログも負けず劣らず、簡単には風化しない。というか自然には消えない。だから、映画監督のジェームズ・ガンさんのように、何年も前の発言が発掘されて職を失うなんて事態もしばしば起きるわけで。(※1)
※1 ジェームズ・ガンはアメリカの映画監督、脚本家。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズの1、2作目を監督し、大ヒットに導いた功労者だが、ツイッターで過去に問題発言があったという理由で、2018年7月に3作目の監督を解任された。(ガン監督の復帰を望む声も大きく、2019年3月には正式に復帰が決定した)。
たしかに…。ある意味、銅像よりも過去のツイートなどのほうにより物質的な手応えというか、存在感の大きさは感じてしまうかもしれません。
柴田 モニュメントの素材としては、もはやブロンズよりもツイートのような電子的な記録のほうが恒久的だとすら言えます。2017年にアメリカで南軍のリー将軍の銅像が撤去・破壊されたニュースってご存知ですか? (※2)
…どういう話でしたっけ?
※2 ロバート・E・リー将軍は南北戦争(1861〜65年)で南軍(南部連合軍)の軍司令官を務めた人物。稀代の名将として知られるが、多くの歴史家が「南北戦争の原因は奴隷制度であった」としているため、アメリカに黒人奴隷制度があった時代の象徴的な存在としても知られている。

▲ヴァージニア州シャーロッツヴィルの公園にあったリー将軍像。(Photo:Getty images)

柴田 リー将軍は奴隷制度の象徴、つまりはアメリカの黒人差別のひとつの象徴みたいになっている人なんですけど、今の時代にあっては、「南部連合の像が存在することは、人種差別主義者に主張の拠りどころを与えてしまう」と批判を向けられています。政治的に「正しくない」「否定するべきもの」だと。そういう理由で、彼のブロンズ像や南軍関連のモニュメントが次々と撤去されていったんです。アメリカ中の、幾つもの州で。
けっこう大変な事態だったんですね。何かきっかけはあったのでしょうか?
柴田 きっかけは南部戦争終結150周年である2015年に起きた、サウスカロライナ州の黒人教会での銃乱射事件でした。この犯人が南軍旗の前でポーズを取った写真が報道で使用されたので、南軍関連の表象は差別の温床になるとして、反発が強まっていったんです。
そうでしたか。2015年といえば「ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命も大切だ)」の運動も活発だった時期。当然かもしれません。
柴田 しかし、銅像の撤去は美術の文脈から見たらただのイコノクラスム(偶像破壊)です。イコノクラスムとは、狭義においては古典的な「聖像破壊」、広義においては、民主的プロセスを経ない偶像破壊、異なる政治的・宗教的信条に対する党派的な批判を伴う破壊行動などを指す言葉ですね。

リー将軍像を撤去しろという主張の背景にある「自分の信条や社会の規範に合わないものは容赦なく壊していい」という考えは民主主義の軽視であり、マイナスイメージのある歴史を残すことそのものに反対するという意味では歴史修正主義です。突き詰めればバーミヤン(アフガニスタン)で仏教遺跡を破壊したイスラム過激派たちと同じじゃないですか。かなり野蛮なふるまいです。なのにリベラルな知識人たちはみんな、この流れに対して何も反対意見を言えていなかったんですよね。
難しい問題です…。「リー将軍を守ろう」という主張は、奴隷制度や黒人差別を支持するようなニュアンスでも取られてしまいそうで。
柴田 だからってイコノクラスムを黙認するのは相当問題ですよ。と言いつつも、レーニンや(サダム・)フセインの銅像をネットで検索してみると、まさに撤去・破壊されていく瞬間の写真が多く出てきて、それはそれでスペクタクルがある光景だなと感じてしまうんですけどね。エロティックでサディスティック。破壊のイメージそのものが新しい価値として提示されるという構造がそこにはある。

▲破壊され、路上で引きずり回されるフセイン元大統領像の頭部。2003年4月18日、バグダッド(イラク)にて。(Photo:Getty images)

柴田 それはともかく、話を炎上彫刻に戻しますね。銅像はイコノクラスムによって姿を消しますが、それとは逆に、炎上彫刻は偶像破壊が行われる、まさにその過程で徐々に立ち上がってくる。この点にかなり面白みがあると思っています。
それは…、どういうことでしょうか?
柴田 大体の炎上って、気に入らない何かを叩いて壊す行為ですよね。たとえば、今年のロフトのバレンタイン広告を思い出してください(※3)。「女性を貶(おとし)めている!」「差別を助長する!」、だから「取り下げろ!」。そういう声が多くてキャンペーンが中止になった件です。
※3 ロフト(生活雑貨専門店)のバレンタイン広告は、女の子同士の会話を描いたアニメーションが、女子の陰湿さを強調し揶揄するような内容だとして非難が集中し、炎上した。
そんな炎上、ありましたね。近い時期に百貨店の西武そごうの企業広告も同じような批判で燃えていた記憶があります。パイを投げつけられた女性の横に「女の時代なんて、いらない?」というコピーの入っていた広告。
柴田 それもありました。ああいったジェンダー系の炎上は、基本的に対象が取り下げられるまで続きます。怒りの言葉が集まり、さらにそれらが触媒となり、新たな言葉を引き寄せ、急速にイデオロギーが肥大化していく。炎上はそうして山火事のように広がっていきます。
どんどん「許せない!感」がエスカレートしていくということですね。
柴田 そして、対象がめでたく取り下げられ、イコノクラスムが完遂された後にはどうなると思います? それらに向けられていた怒りの言葉だけが、この世に残るんですよ。炎上彫刻として。
「因縁の対決で遂にライバルを殺してしまったガンマンが荒野に独り佇んでいる」みたいな映像が浮かびました。ビターな味わいがあって素敵です。
柴田 いい喩えです(笑)。ところで、同時代性というのはどんな表象にも備わっているものですが、こうしてリアルタイムで生成されていく炎上彫刻には、従来のモニュメントとはまったく異なる形でそれが刻まれているように思います。
同時代性というのは?
柴田 同時代性とは、簡単に言えば同じ時代を生きる者たちの共通した傾向ですね。従来のモニュメントは、過去を記録する、あるいは物語化するためにつくられるものでしたが、そうではなく、現在の価値観によって過去を否定することがリアルタイムで記録されることで形づくられる「炎上彫刻」は、現在の価値観そのものを記録するモニュメントです。

“銭湯絵師見習い”が見せた、炎上の新次元

炎上の彫刻っぽさがだんだんわかってきました。しかし、彫刻というからには、炎上にも「作品」としての良し悪し、美醜の基準などはあるでしょうか。これは美しい炎上だと言えるような例があれば、ぜひ教えてください。
柴田 美しい炎上、ありますよ! 最近の例で挙げると、銭湯絵師見習いのパクリ炎上とDOMMUNE&坂上忍さんの一連のやりとりですかね。自分の炎上ではないですが、あのふたつは歴史に残る傑作感がありました。
へえー、そうなんですか! それでは、まず銭湯絵師見習いの件から説明していただいてもいいですか? (※4)
※4  銭湯絵師見習い、アーティスト兼モデルの勝海麻衣さんの複数作品に盗作疑惑が浮上している件。疑惑の発端は、3月24日に行われた製薬会社のPRイベント。勝海さんが描いた2匹の虎の絵が著名イラストレーター「猫将軍」さんの作品に酷似しているとの指摘があり発覚した。
柴田 あの人(勝海さん)は最終的に、これまでにない、まったく新しい炎上の地平を切り拓いたんじゃないかと思ってます。

順を追って確認していくと、最初に彼女が猫将軍さんの絵をパクっているようにしか見えない絵を描いて話題になったとき、多くの人の感想はまず「あ〜、やっちゃったな」くらいだったと思うんですよ。「プレッシャーも大きかったんだろう」、「追いつめられてたんだな」と。しかしその後発表した謝罪文の内容が非常にまずくて、大炎上になりましたよね。
盗作を認めるでもなく、「結果的に迷惑をかけて申し訳なかった」という、趣旨のよくわからない文章でした。
柴田 当然ながら猫将軍さんは激怒されて。その他に銭湯絵師・アイドル「湯島ちょこ」さんの告発などもあり、製薬会社のイベントでの盗作だけでなく、勝海さんの活動全般へ疑惑の目が向けられていきました。その過程で「5ちゃんねる」のユーザーを中心に検証が始まった。そして結局、作品のほとんど全部が何かのパクリであり、ホームページに記載されたコンセプチュアルな文章すら他の人のパクリだったことが暴かれてしまいました。
柴田 著作権を侵害された方々には気の毒ですけど、“パクリ作家”としてあれだけ徹底してやっていたのはスゴいなと私は思ってしまいました。パクってしまう人でも、全作品をパクってるのなんて見たことない。「オリジナル疑惑」なるパワーワードも出現しました。
もはや「パクリ疑惑」ではなく、「まさかオリジナルが存在するのか?」と疑われる、逆転現象ですね。
柴田 「オリジナル疑惑」という概念が出てきたとき、私はもう「銭湯絵師の勝ちだ!」と感服してしまいました(笑)。炎上の最初のほうはみんな怒っていたと思うのですが、一気に怒りの感情がずらされちゃいましたよね。
感情がずらされた?
柴田 怒っていいのかどうか、わからなくなっちゃった、みたいな。「もはやパクる行為そのものが作品っぽく見えてきた」、という人も少なくないと思います。しかもその後、どうでもいい日常的なパクツイ(他人のツイート内容を盗むこと)をしていたことも発覚したじゃないですか。5年ほど前の「晩ご飯汁物一品だった」というパクツイなどまで、丹念に掘り返されて。

この想定外すぎる展開を受けて、炎上の質は決定的に変わりました。もはやパクリは叩くべき絶対悪ではなくなった。彼女の盗作という行為に対する非難や怒りは薄れきって、彼女の“人となり”に対する、純粋な興味になってしまいました。
AI疑惑なんていう、SF的な解釈なんかも出てきましたね。
柴田 この件のいいところは、そういう結末の鮮やかさですよ。最初は誰もが怒っていて、一定の正義と正当性を感じながら炎上に参加していたはず。数々のパクリを暴いた人たちも、義侠心から調査を始めたんじゃないかと思います。でも、出てきたものがあまりにも想像の斜め上だった。それでイコノクラスム的な、制裁=謝罪の構図が崩れ、次第にみんなで楽しむような空気にシフトしてしまった。こんな炎上は、なかなかないですよ。
なるほど…。先ほど柴田さんは炎上の自然現象的な側面をおっしゃってましたが、彫刻作品としては“観客参加型”の制作という感じもしますね。この件では、勝海さんを中心に、元の絵の作家さんたちやパクリの暴露をした人たち、みんながベストを尽くして作りあげたみたいな…。そう解釈するとジンワリします。
柴田 それにしても、あれだけ日常的にパクリをできる感覚は相当な個性です。もし彼女のことをプロモートする大人たちに現代美術的な素養があれば、もしかしたら彼女は大作家になれていたかもしれないと思うと残念ですね。
どこかのタイミングで「パクリこそが私のアート!」と表明したらよかったんですかね。
柴田 「銭湯絵画はもともとオリジナルなきコピー、シュミラークル! これは伝統工芸の要素が加速を伴い表出した、現代美術ですよ!」とかね。何にせよ、勝海さんはまだ若いし、人を驚かせるような個性は確実にあるので、いつか復帰されるのを期待しています。

炎上を「祝祭」に変えたDOMMUNEの「坂上忍縛り」

柴田 続いてDOMMUNEの件ですが、こちらは炎上彫刻の美しさというよりは、炎上に対峙する作法の美しさの話ですね。
「電気グルーヴ縛り」と「坂上忍縛り」の件ですね。(※5)
※5  DOMMUNEは3月26日、5時間に渡るDJプログラム『DJ Plays "電気グルーヴ" ONLY!!』を配信。3月28日、テレビ番組『バイキング』(フジテレビ系列)で司会の坂上忍さんらが「DOUMMUNEなんて知らない」「売名行為か」などとこれを揶揄。4月15日、DOMMUNEは同番組に対するアンサーとして、坂上さんの楽曲のみによるDJプログラム『DJ Plays "坂上忍" ONLY!!』を配信した。
柴田 今回何が美しかったかって、DOMMUNE代表、宇川(直宏)さんのコンセプトの一貫性とユーモアですよね。

『バイキング』は、出演者たちのムラ社会的な他者を抑圧しようとする態度が火種になって炎上。ネットではあんな番組なくなれとか、つぶせとか、そう言う声もたくさんありました。だけど、それだと単純に「自分が嫌いな文化は無くなれ」「自分のよく知らないものは価値が無いのでどうなってもかまわない」という理屈なので、『バイキング』と変わらない。暴力の連鎖になる。

そこで宇川さんが「文化を守る」という、電気グルーヴの曲を流したのとまったく同じロジックで、坂上さんの曲を流すことにした。これはすごくきれいな構図です。

しかも坂上さんの歌手時代のことなんて、たまにバラエティー番組でイジられることはあっても、多くの人は興味ないし、知らないじゃないですか。そういう過去のものを発掘してきて人を楽しませるというのは、DJ・VJの美学にもしっかり則っています。過去のイメージを打ち壊しつつ新たなイメージをつくりあげる、メディアセラピスト(Media The Rapist)の宇川さんならではの仕事です。
最高でしたね。
柴田 私はこの件の宇川さんの対応を見ていて、「数の力で他人を罰するより、炎上はカーニバルとして楽しんだほうがいいな」という確信を得ました。

ここ何年も、何か不祥事があるたびに「社会的制裁」と「謝罪」が一種のエンタメとして繰り返されてきましたよね。バッシングして、誰かが損するのを楽しむことが、しかも「正義」の振る舞いとして行われてきました。「#Me too」などを経た今、炎上させる行為が、正義の制裁のように思われることもあります。

だけど、かつての「2ちゃんねる」のことを思うと、炎上なんて下品ではしたない「祭り」だったはずなんです。まるで悪人を火炙りで処刑するみたいに今はなってますけど、以前の炎上はキャンプファイヤー的なものだった。みんなが踊って楽しめるような、楽しいものだった。

DOMMUNEの件も銭湯絵師見習いの件も、久々に祝祭的な炎上を見られたような気がしました。“お約束”的な展開からの逸脱とユーモアがあってよかった。凝り固まった社会規範にエラーを生じさせるこういう炎上は、ネットの風通しをよくしてくれる。清々しいです。
たしかにお祭り感、ありました。平成ネット史最後のいい思い出ですね。ところで、電気グルーヴの石野卓球さんのツイートはどう思われますか?私は大好きなのですが。
柴田 いいですよね。卓球さんの通常運転で露悪的に見えるツイートによって、厳粛になっていた世の中の規範意識がぐずぐずに崩されていったような感触があります。思い返せば、『バイキング』ではDOMMUNEより先に卓球さんが槍玉に挙がったのでした。「制裁」と「謝罪」のエンタメを断固拒否した卓球さんがいてこその一連の流れですね。

卓球さんの言葉は昔から一貫して、ツイートでも歌詞でも、言葉としての気持ちよさが追求されている。純粋言語というか、『欲望会議』で哲学者の千葉雅也が言っていた、コミュニケーション機能を逸脱・自己増殖していく「自動機械」としての言語。卓球さんや宇川さんは、自動機械としての言語、自動機械としての芸術というスタイルを一貫して貫かれている。これはある意味、空気を読んでないというか、彼らが誰かに肯定されるためとか、評価されるためになんてやってないからこそできることなのかなと思います。

また、今回の騒動に関して言えば、彼らがやっているのは理不尽な圧力に屈しないという真に大人の対応であり、「自分の意見を言う」という、実は人として極めて基本的なことだなと思いました。でも、これをできる人が今や少なくなっている。なぜならそれは、「己の不愉快さ」を引き受けることであり、同時に「他者の不愉快さ」を認めることだからです

最近は、他者に不快感を与えないコミュニケーション能力ばかりが求められています。そういう状況の下では、自分の意見を言うことは難しくなる。しかしだからこそ、今後ますます重要になってくるかもしれません。誰も傷つけない、誰にとっても安心で快適な人なんて本来いないはずですから。

「今後はネタツイを増やそうかな」

先ほど、柴田さんが「ユーモア」を話題にされたのが少し意外でした。こう言っては失礼かもしれませんが、柴田さんのツイートは決してユーモアに重きを置いているようには、見えないですよね。
柴田 そうですね。私がツイッターでやっている「炎上彫刻」は、多くの人がいいと思っている社会規範の矛盾を暴くという、かなりアイロニカルな行為なので。しかし、この辺りは実は私も少し課題があると感じているんです。

冗談にまぶしてしまうと、意図が伝らないというか、効果が薄くなってしまう場合が多いんですよ。「単純な人」って単純なので、ユーモラスに批判しても気付いてくれない(笑)。アイロニカルな態度で批判をしたほうが、センシティブであることに特化している単純な方々にもちゃんと批判として理解されやすいんです。ユーモアは重要だけど、あまりにユーモアに寄せすぎてると意味がなくなってしまう。そういう葛藤が常にあります。もう少し上手にやれるといいんですけどね。
そんな葛藤を抱えてまで、何かを批判し続けるのはなぜなのでしょうか。
柴田 私の「炎上彫刻」にまつわるツイートは概ね“全体主義批判”のつもりでやってるんですよ。日本のインターネット“ポリコレ勢”は、風紀委員のように規範の強化に勤しんでいますが、イデオロギーにまつわる考えが中国共産党と似ていて、全体主義的なので。そうそう、中国では最近BL(ボーイズラブ)作品の作家さんが懲役10年半の刑を食らったそうです。
量刑が重いですね!
柴田 中国共産党は、「作品は人の心を動かすし、内面を書き換えてしまう」という認識を持っていて、共産党の思想に反するイデオロギーの作品は、反抗の芽となり得るから存在を許さないという考え方なんです。でもそれって、ロフトのバレンタイン広告を批判していた人たちも大体同じですよね。女性を貶める表現だ、見た人が女性差別を内面化してしまう、だから企業はそうした広告を自主的に取りやめるべきだと主張してるわけなので。
なるほど…。でもどうすればそんな話にユーモアを落とし込めるのかは、確かに未知数ですね…。
柴田 まあ、社会派っぽいのと冗談っぽいのを、バランスよく出し分けていくのがいいんですかね。今後はもう少しネタツイ的な投稿を増やしていこうかな、銭湯絵師見習いを見習って(笑)。
パクツイには気をつけてくださいね…!

【次回予告】
「あなたはもう彫刻を無視できない」特集、次回のテーマは...未定…。

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