延岡学園バスケットボール部の男子留学生がレフェリーを殴打した事件は、スポーツ界に大きな衝撃を与えた。その映像がSNS上で広く拡散されたこともあって騒ぎは拡大。同校は全国高校総体の出場辞退を表明し、事件を起こしたコンゴ人留学生の帰国が発表された。

 この件について、2008年から3年間、岡山学芸館高校に留学し、現在はプロ選手として活躍するモーリス・ンドゥールに意見を求めた。


高校3年間を日本で過ごした、元ニューヨーク・ニックスのンドゥール

 セネガル出身のンドゥールは、同校のバスケットボール部員して全国大会にも出場。2年連続で岡山県の最優秀選手に選出され、”スーパー留学生”と呼ばれた。その後、2016〜2017シーズンにはニューヨーク・ニックスの一員としてNBAでも活躍するなど、日本に来た留学生のなかでも最高級の充実したキャリアを過ごしている。

 今でも流暢に日本語を操り、全部で6つの異なる言語を話すというンドゥール。「日本という国は僕をより良い人間にしてくれた」という言葉からは、バスケ人生の礎(いしずえ)となった国への熱い想いが伝わってくる。

その一方で、日本における留学生の受け入れ態勢の物足りなさ、準備の欠如に関しては思うところもあったという。

 延岡学園の事件の原因を、周囲のサポート、準備不足だけに結びつけるつもりはない。ただ、留学経験者であるンドゥールのリアルな証言からは、外国人を受け入れる学校側にも少なからず問題があることが見えてくる。

――延岡学園バスケットボール部の事件を知ったとき、どう思いましたか?

「日本の高校バスケ界であのような事件が起こったことには驚かされた。もちろん支持はできないし、彼は間違ったことをした。スポーツの世界においてあんな事件を許容する余地はない。さまざまな思いが蓄積した結果だったんじゃないかな。タイミングの悪さも手伝って、内側に溜め込んでいたものが爆発してしまったんだと思う。

 ただ、もう事件は起こってしまったのだから、その事実を変えることはできない。今後にできるのは両者が話し合い、いい方向に向かうこと。実際に、選手はレフェリーに謝罪し、レフェリー側も被害届は出さないと聞いている。この事件を契機に関係者たちは一丸となってほしい。その先、『あのつらい事件がいい結果を導き出した』と言えるようになればいいと思う」 

――あのゲーム中だけに限らず、「異国で味わうさまざまなストレスが影響したんじゃないか」という意見は実際に出ています。経験者だからこそわかる、日本で留学生が直面する難しさもあると思いますが。

「まず、留学生が15、16歳の少年たちだということを忘れないでほしい。母国を離れ、まったく違う文化の国に飛び込んだ子どもなんだ。アフリカで生まれた子どもが、言葉も文化も異なるアジア、日本で生活することが簡単ではないのは当然だよ。

 上手に適応できる子がいれば、そうではない子もいる。家族のような雰囲気の中で過ごせば落ち着ける子もいるし、それ以外の何かが必要になる子もいる。たとえば、日本の高校生がアフリカで暮らすとして、現地での生活に適応するのがどれだけ難しいかを想像してみてほしい」

――ンドゥール選手はこれまで多くの国で生活した経験がありますが、日本特有の難しさを挙げるとすれば?

「日本では、より多くのものを要求されることは事実だと思う。みんなが何でも一生懸命やるし、練習でも常に誰もがハードに動く。学校には時間に遅れずに登校して、年上の人には敬意を払う。規律のしっかりした生活は日本では当たり前だとしても、多くのアフリカの子どもたちにとっては慣れないことだ。

 アフリカでは、子どもも大人も老人もみんながジョークを飛ばし合う、より大らかな文化。日本とは雰囲気が違う。そんなに物事を深刻に考えることはないし、『子どもは子どもらしくあればいい』といった空気がある。日本はそうではなく、留学生に対しても多くを要求する。その一方で、留学生のためのサポートシステムがしっかりしているとは言えないと思う」

――今回の延岡学園の事件でも、学生に対するサポートが不十分だったんじゃないかと指摘する声があります。ンドゥール選手は高校時代を岡山で過ごし、岡山学芸館高校に通ったわけですが、学校、地域のサポートが万全だとは感じられなかったんですか? 

「僕が快適に過ごせるように、地元が”ホーム”だと感じられるように、みんながベストを尽くしてくれた。先生はいつも僕に声をかけ、『できることがあったらいつでも言ってくれ』と伝えてくれた。バスケ部のコーチも気にかけてくれていたね。寮で暮らしたんだけど、寮長もよく世話をしてくれた。

 ただ、やはり”家族の雰囲気”ではなかったと思う。ファミリーというより、先生と生徒、コーチと選手の関係だった。アメリカでは、たいていの留学生はホストファミリーの家でホームステイする形で生活する。それに対して日本では、ドミトリーでいきなり他の生徒たちと一緒に過ごすから、部屋でひとりでいることがどうしても多くなるんだ」

――私がニューヨークで生活し始めた当初もホームステイで、朝晩の食事はホストファミリーと共にしました。確かに、特に10代の生徒にとっては、ホームステイのほうが生活環境としてはベターなのかもしれませんね。

「ホームステイではほとんど家族の一員になるわけだから、その国のカルチャーに触れる機会が増える。本当の両親ではなくとも、大人のケアを受けることで家族になったように過ごせる。守られていて、安全に感じられる。繰り返すけど、岡山では僕の周囲の人たちがベストを尽くしてくれた。それでも、より家族的なケアを受けることを望む子どもたちも間違いなく存在すると思う」

――ホームステイ以外に、受け入れる側の学校が準備しておくべきことはありますか? 

「最初のステップとして、受け入れる側が学生のバックグラウンドをもう少し知っておくべきだと思う。留学生がクラスでひとりでいたとしても、彼はクラスメイトのことが嫌いなわけではないから、日本の生徒たちも歩み寄ってほしい。違う国の人間だとしても、共通点やわかり合える部分は必ずある。最初は円滑ではなくても、コミュニケーションを取り続けることでそれが見えてくる。留学生は日本について学び、受け入れる側もその生徒の国について学ぶことで、支え合えるようになるんだ」 

――日本には、依然として閉鎖的な部分が残っていると。

「日本は世界でも有数の外国人が多く訪れる国だというのに、海外のことを学んだり、理解しようとしない人が多いことは残念に感じた。僕の高校時代もみんなセネガルのことを知らなかったから、驚くほどバカげた質問を頻繁にされたよ」

――具体的にはどんな質問をされたんですか? 

「たとえば、『アフリカでは、ジャングルで野生動物に囲まれて暮らしていたの?』とか、『セネガルに帰ったら、今着ているユニフォームをそのまま私服にするの?』とか。みんなセネガルがどんな国か知らず、ひどく貧しくて、食べるものも着るものもないという固定観念があったんだろうね。最初は腹が立ったけど、彼らは差別をしているのではなく、ただ知識がないだけだとすぐに気づいた。『アフリカは貧しい』というステレオタイプのせいなんだろうね」

――コート上で嫌な思いをしたことは? 

「2年生か、3年生のときだったかは忘れたけど、あるトーナメントのゲームで汚い言葉でののしられ続けたことがある。「This is not your country(ここはおまえの国じゃない)」「Go back to your country(自分の国に帰れ)」といった感じでね。ただ、試合中は反応しなかった。僕が怒って退場にでもなれば、相手チームに勝つチャンスが生まれることはわかっていたから。

 だから、試合が終わるまではずっと黙っていたんだけど、ゲームの後にその言葉を発した選手のところに行って、しばらく言い争いになった。その後に両チームのコーチも交えて話し合って、お互いに謝罪し、そこで終わった。すべての人に好かれるわけではないのはわかっていたし、報復するつもりもなかった。『誰かに悪意を受けても、そのことが僕という人間を変えるわけじゃない』というのが僕のフィロソフィー。何があろうと、人には親切に接し続けるつもりだよ」

――当時、岡山学芸館高校には何人の留学生がいたんですか?

「黒人は僕だけだった。中国の交換留学生などを合わせれば、全部で11人くらいの留学生がいたね」 

――来日後、ホームシックになったことは?

「最初の4カ月はタフだったよ。日本の人たちがどう感じるか、どう行動するかに適応しなければならなかったからね。知人も友人もいなかったから孤独だった。ただ、4カ月を過ぎた頃には大丈夫になった。いずれ親元を離れて自分の足で歩いていかなければいけないわけだから、そこで『自分の夢に向かって生きていこう』と決意した。バスケットボール選手として自らを向上させ、次の段階に進むことを目標に暮らすようになった。そんな考えが、僕が日本で過ごした3年間の原動力になったんだ」

――その頃からンドゥール選手は非常に聡明で、精神的な強さもあったんですね。語学も得意で、日本語弁論大会で優勝したときの動画がYou Tubeに残っているくらいですし。ただ、すべての留学生が同じように強い意思を持って生活できるわけではないと思います。留学中にホームシックで悩んでいる生徒はいましたか?

「僕が2年生のときにセネガルから新しい留学生が来た際には、彼の生活が少しでも快適になるよう、毎日のように話をしにいった。僕にとって”ブラザー”と言える存在になって、今でも僕のブラザーだ。ただ、結局はひどいホームシックになって、学校に3年間通えなかった。環境に適応できずに帰国して、日本には戻ってこなかったよ」 

――しっかりとした英語が話せる人は学校にどれくらいいたんですか? 

「どんな学校にもイングリッシュ・スピーカーは必ずいる。岡山学芸館高校は留学生が多かったから、英語の先生以外にも英語を話せる教師が4人もいた。ただ、だからといって、その人たちが留学生と簡単に心を通わせられるわけではない。僕はセネガルで英語を勉強しておいたからよかったけど、他の留学生たちは必ずしもそうじゃない。セネガルの人々はふだんフランス語を話すからね」

――留学生が授業にほとんど出ず、スポーツだけしていても黙認する学校があるという噂もあります。それを耳にしたことはありますか? 

「その噂は僕も聞いたことがあるけど、本当かどうかはわからない。僕が話せるのは僕が通った学校のことだけ。僕は最初の6カ月、日本語を勉強するクラスを受講した。その後は他の日本人の部員たちと同じクラスに入り、普通に授業を受けた。内容によっては理解できず、難しいクラスも多かったけど、とにかく岡山学芸館高校ではみんながそうやって授業を受けた。コンピューターの授業は大丈夫だったけど、歴史のクラスは難しかったな。宿題をやるのも大変だった」

――冒頭で話があったように、今回の事件がポジティブな変化を生み出すことを期待したいですね。

「僕は日本では本当に素晴らしい経験ができて、知り合った仲間たちは今でも”従兄弟”のような存在だ。セネガル人と日本人だってそんな関係になれる。僕は日本のカルチャーを学び、おかげで日本という国は僕をより良い人間にしてくれた。肌の色は関係なく、みんな同じ人間なんだ。

 重要なのは理解し合うこと。実際に話し、触れ合うことで物事はいい方向に進んでいくと信じている。そして、バスケットボールは多くの国の人々を結びつけることができるはずなんだ。僕は日本が本当に大好きで、来年の夏には日本でバスケットボール・キャンプを開催しようと計画しているくらい。だからこそ、日本の留学生がより暮らしやすい環境に恵まれることを、心から願っているよ」

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