戦争がはじまったからだ。

サラエボの電話回線がまだ世界とつながっているころ、オシムは毎晩、ベオ
グラードから「今日のようすはどうだ?」と電話をかけた。何度か、私自身の
いた編集部にかかってきたこともある。ちょうどグルバビツァ(ジェリェズニ
チャル・サラエボのホームスタジアム)が攻撃された直後で、私はスタジアム
がどんな風に焼け落ちていったか、この目で見た様子をオシムに説明するハメ
になった。オシムはその数日後に辞任した。

ニューヨークタイムズ1992年6月3日付は、オシムの声明をくわしく引用して
報道した。故郷の人びとがこのように苦しんでいるときに、平然としているこ
とはできない。結果的にオシムが辞任したユーゴスラビア代表はユーロへの
出場を禁止された。もうすでにその時点では「ユーゴスラビア」ではなくなっ
ていたチームだった。

予選をたたかったメンバーからは、GKイブコビッチを初めとするクロアチ
ア人選手4人が去り、スロベニア人のカタネツ、予選8試合で10得点をあげて
いたマケドニア人のパンチェフ、サラエボ出身のハジベギッチとバジダレビッ
チもいなくなっていた(注・残ったのはセルビアとモンテネグロ出身者のみ)。

オシムがいなくなって、ユーゴスラビア代表も解体した。ユーゴスラビア国家
そのものも消滅した。オシムがいないことで、多くのものが失われた1992年
も、逆説的な意味で「オシムの年」だったかもしれない。

それから、ちょうど20年後。2012年もまたオシムの年だった。オシムは当時
も、また現在も、毎日の政治的事件や動揺からは超然としながら、自分自身の
行動規範、モラルの基準を揺るがすことなく、民族的な対立や違いを乗り越え
ることこそ、共同の未来にとって「善」になるという確信を抱いている。それ
だからこそ、そうした原則に根ざした尊敬をあつめ、人びとを動かす権威を
持っているのだろう。

2012年12月 (テクスト翻訳と要約は千田)

PS.ちなみに、ボスニアの2012年最優秀アスリートは、女子の部が水泳の
イワナ・ニンコビッチ、男子がバスケットボールのミルザ・テレトビッチ両選手
だったのですが、「何だ、オシムさんじゃないじゃん」というなかれ、オシム
さんはこの表彰式の審査委員長だったので、さすがに自分には賞をあげないし、
外部からの推薦もなかった。まあ、その代わりに、といっては何ですが、こう
いう記事が出てくるわけですね。

それから、前回のモドリッチの記事で「オシムまで批判するのか」というよう
な誤解があるみたいですが、見出しばかりでなく文章をよく読めば、オシムさん
はモドリッチがレアルにあっていないと言っているだけで、それでもチャンスが
来たらがんばれ、と応援していることが分かるはずです。(千田)