なのだがボスニアではそうでなかった)組織に改革できるということを証明
したのだから。

ボスニアの政治はとくに2010年の総選挙以降、恒常的な危機にある。2006
年の憲法改正案否決からこのかた、改革どころか、日常の政治決定さえ下せ
ない、議会内での首相の選挙すら数週間も成立しない。議会だけでなく、
社会全体が民族別に深く分裂し、国家のあるべき状態をなさない中で、
サッカー連盟だけが民族別の、よく言えば均衡、普通の言葉で言えば妥協と
停滞の状況を抜け出すことができるのか。そうした疑念・疑問を持つものの
方が多い状況で、オシムの仕事は「ミッション・インポッシブル(不可能な
使命)」を実行することだった。

その結果については読者もよくご存じだろうから繰り返さないが、ひとつの
エピソードを紹介しよう。ボスニアの停戦維持と政治状況に最終的な責任と
権限をもっている「上級代表」のバレンティン・インツコ(オーストリアの
外交官)が最近ワシントンで開かれた集会で、“そんなに民族同士が対立し
ているのなら、どうやって国家の統一を維持していくのか”という質問に
たいして、イビツァ・オシムの名前をあげて改革の可能性をしめしたのだ。

インツコは語った。サッカー連盟にはイビツァ・オシムという有名な人物が
おり、プラティニからの“サッカー連盟をひとつにまとめ、会長の役職も
ひとりが専任するように”という簡単ではない要求にこたえ、オシムは
みごとに成功した。

オシムはその改革を通じて、民族別に分割された地域からの代表たちの利害
や、これまで慣例になってきた民族ごとの役職のローテーションシステム
(選挙は形式的で、あらかじめ決められた順番にしたがってポストをたらい
回しする輪番制)を超越して、規約改正と機構改革を成し遂げた。

残念ながら、サッカー連盟以外の組織では、政府であれ議会であれ、そのほか
の社会組織であれ、このような改革の機運はまったく見られない。本来なら
そうした政治社会組織こそが改革をもっとも必要にしているはずなのに。

だからこそ、2012年のボスニアの最大の成功は、サッカー連盟の改革だった
ということを重ねて強調しよう。利害や対立を越えて、話し合いをかさね、
FIFAやUEFAという国際的な基準に合致した組織に作り替え、さらに
こんごの改革がすすむ仕組みも作り上げた。かれの協力者たちの努力は貴重
なものだっただろうが、イビツァ・オシムの人間性と、人びとから尊敬を集め
る権威がなければ成功できなかっただろう。

これまで「オシムの年」と呼ぶにふさわしい時期が何度かあった。ひとつは
1968年のヨーロッパ選手権(現在のユーロ)。当時のユーゴスラビア代表は
2年前のワールドカップで優勝したばかりの現役の世界王者イングランドを
倒し、決勝に進んだ(残念なことにオシムは負傷で欠場したが、大会のベスト
イレブンに選ばれた)。

次はジェリェズニチャル・サラエボを率いてUEFAカップ(現在のヨーロッ
パリーグ)ベスト4に勝ち進んだ1986年や、ユーゴスラビア代表をワールド
カップのベスト8にみちびいた1990年。その後、オシムはギリシャ(パナシ
ナイコス)、オーストリア(シュトゥルム・グラーツ)、日本(ジェフ、日本
代表)でそれぞれ成功を収めて、しばらく前にボスニアに戻ってきた。

われわれボスニアの人間にとって忘れがたいのは、オシムがベオグラードを
離れてギリシャに向かう直前の1992年のできごとだろう。1992年のユーロ
には、オシムは予選をかるがると突破し、優勝候補の一角と目されながら、
結局出場しなかった。ユーロのはじまる数週間前、サラエボで(ボスニアで)