戦争が始まったとき、ジェコは6歳だった。「大変な時期だったよ。食べ物があまり
なくて。恐かった。狙撃されたり、爆弾が落ちてくるので、いつも身を隠していなけ
ればならなかったんだ。ぼくの家は壊されたので、祖父の家に住んでいた。35平方m
の狭いアパートに、15人ぐらいかな、家族全員が住んでいたんだ」と回想する。
ボスニア代表選手であの戦争で被害を受けていないものは少ない。
http://www.independent.co.uk/sport/football/international/bosniaherzegovinia-young-republic-united-by-football-6260846.html

それなのに、ボスニア各地でサポーター同士の乱闘が続いているのは、困ったものです。

第一次世界大戦が1914年に、サラエボから始まったのは有名な話。いまでも、オース
トリア皇太子夫妻が銃撃された橋のそばには博物館があり、当時の写真などが展示され
ています。はじめはオーストリアとセルビアの2国間の対立だったものが、双方とも
バックに軍事同盟国が控えていたため、「世界大戦」に。歴史上初めて戦車や化学兵器
などが使用され、死者・行方不明者は2000万人ともいわれます。

その犠牲者の追悼にポピーの花が使われるようになったのは、医師として従軍していた
カナダ人の詩人が「フランダースの野原にて」というタイトルで、死んだ兵士たちが
埋められている埋葬地に咲いているポピーの花をうたった。その詩がカナダから世界中
に有名になったためらしい。それで、赤いポピーが戦死者追悼のシンボルになった。

赤いポピーにたいして「白いポピー」は、明確な反戦・平和のシンボル。ポピーが
「お墓に咲く花」というイメージは定着していて、ベトナム戦争時代の反戦歌「花は
どこに行った」も、おそらくこの花をイメージして歌われ、社会問題になった。
(その歌詞は「花はどこに行った、少女が摘んだ。少女はどこに行った。若者の所に
嫁に行った。夫は戦争に行き、死んだ。墓のまわりには花が咲いた。花はどこに行っ
た(……くり返し、最後に)いつになったら、わかるのだろう」という内容)

ちなみにポピー(ひなげし)の雅名は「虞美人草」。漢の劉邦に追い詰められた楚の
項羽の愛人の墓に咲いたのがこの花。中国でもポピーはお墓に咲くのですね(漱石に
同じ題の小説がありますが別の話)。

それで、いきなり話題が元に戻りますが、イングランド代表はポピーのワッペン付きの
アームバンドをはめて試合にのぞむことができたわけですが、一部の選手が「プレー中
に紛失した」ことを大衆紙「サン」などが問題視する記事を載せています。「大戦の
戦没者追悼のシンボルをなくすとは何ごとだ」などという文を読むと、赤いポピーは
追悼のシンボルというよりは、「愛国主義」の象徴になっているようです。

11日にキプロスと試合したスコットランド代表も、同じく黒のアームバンドに赤いポピー
のワッペンを付けて試合をしたのですが、こちらは、試合中に脱落する例が続出。はず
したままプレーしていると何を言われるか分からないので、選手たちは付けなおすのに
手間取り、プレーに集中できなかった。

原因はアームバンドのマジックテープらしい。イングランドのは幅広のゴムバンドの
「わっか」になっていた(たぶん)ので大丈夫だったが、スコットランドのものは、
はずれやすく、試合の後でレビン監督がわざわざ弁明しなければならなかったほど、
11月11日のポピーは、イギリスでは大事なもののようです。試合はキプロスに2―1で
勝ったからよかったけど……。