■巨大な財閥を解体した三菱グループの親会社とは?
トヨタグループの親会社はトヨタ自動車、日立グループの親会社は日立製作所。では、三菱グループの親会社はどこかご存じだろうか? 答えは「ない」。三菱グループに特定の親会社は存在しない。
戦前の三菱財閥には親会社(持株会社)の三菱本社があった。しかし、第2次世界大戦で日本が敗戦を迎え、財閥解体によって解体されてしまう。いわば、親を亡くした兄弟会社たちが三菱グループの実態である(三井・住友グループも同様)。
とはいえ、三菱グループ各社は個々の企業だけではなく、グループとして活動していることも知られている。たとえば、万博のパビリオン出展、寄付やイベントの協賛などである。そこで、グループの意思決定の場として、各社のトップが集まる「社長会」がある。
三菱グループでは毎月第二金曜日の12:00〜13:30に三菱ビル15F会議室で「三菱金曜会」と呼ばれる会合が催される(開催時期・場所は1980年代当時)。同様に三井には「二木会(にもくかい)」、住友には「白水会(はくすいかい)」がある。
■どうやって「三菱金曜会」の初期メンバー25社を決めたのか
三菱グループ企業といった場合、一般的にはこの「三菱金曜会」メンバーを指す。具体的には図表2の25社である。
では、このメンバーはどうやって決められたのか。「三菱金曜会」は1954年頃に発足したと考えられている。その初期メンバーは表で黄色の網掛けをした企業だ(実際にはこの他にも合併でなくなった企業などがあった)。
三菱グループの母体は三菱財閥であるので、その直系企業(三菱では分系(ぶんけい)会社という)がメンバーになっている。直系企業でなかったのは、三菱製紙と三菱海運、そして旭硝子である。これらの特徴は三菱商号を冠していることだ。
■三菱の名を冠していない企業は、なぜ追加メンバーになった?
戦後の財閥解体の一環として三井・三菱・住友商号の使用禁止令が出た。三大財閥の企業は連絡を取り合い、資金を拠出し合って、米国の弁護士や吉田茂首相に根回しをして最終的にこれを撤回させることに成功した(商号・商標防衛問題)。その時のメンバーが「三菱金曜会」を結成したものと思われる。
旭硝子は戦時中、三菱化成工業に合併していたことから、この運動に参加していたのだろう。旭硝子の社長は「本来、グループ企業が『三菱』の名を社名に付けるには、商標委員会の許可が必要だ。しかし、旭硝子の場合は許可なく自由に『三菱硝子』と名乗れる権利がある」(『週刊東洋経済』1998年5月23日号)と語っている。これは商号・商標防衛問題に参加して応分の資金を拠出し、三菱商号使用の権利を獲得したからであろう。
しかし、「三菱金曜会」メンバーの中には三菱商号を冠していない企業や戦後発足の企業もいる。これらはどういった経緯からメンバーに昇格できたのだろうか。
旭硝子の社長は「本来、グループ企業が『三菱』の名を社名に付けるには、商標委員会の許可が必要だ」と語っている。三菱商号・スリーダイヤ商標を使用するには許可が要るのだ。それを決めるのが「三菱金曜会」の下部組織「三菱社名商標委員会」である。
■「将来つぶれない保証がある会社」だけが三菱の商号を許された
「『三菱』を付けるには、三菱各社の社長の集りである金曜会の中に10人ばかりの委員がおりまして、そこでまず審議をする。そこでは内規がありまして、例えば過去3年以上黒字を継続している会社であるとか、あるいは資本金が10億円以上であるとか、また将来ともつぶれない保証がなければならない、というような内規があるわけであります」(『三菱鉱業社史』)。
これは三菱商号の認可に関する証言であるが、三菱商号の認可に内規があるならば、「三菱金曜会」加入に内規があってもおかしくない。筆者が1960年代の「三菱金曜会」メンバーとメンバー外の境界線を線引きしたところ、従業員1000人、資本金10億円、売上高150億円、利益10億円以上が当時のボーダーラインだったようだ(他にも条件があるかもしれないが)。
また、「三菱金曜会」の役割は、当初の商号・商標管理から、1960年代には「BUY三菱」(三菱製品を買いましょう)運動などのグループ戦略推進の場に変容した。そのため、東京海上火災保険や明治生命保険のような、グループ内消費に関連の強い直系企業以外のメンバー参加が望まれたのだろう。
■「三菱金曜会」で社長たちは何を話し合ってきたのか
では、「三菱金曜会」では具体的に何が話し合われているのか。グループ全体に関わるような重要議題が話し合われているという説と、寄付や商標認可しか話していないという説とがある。無論(むろん)、社長会の役割・位置付けは時代によって異なり、また発言者の意図によって重要性を隠蔽(いんぺい)していることも当然考えられる。
「金曜会に出席したある外国人によると『この会合では非常に重要な決定が下される』という」(『日経ビジネス』1990年10月22日号)。また、三井グループの社長会「二木会」を結成した三井不動産社長・江戸英雄(えどひでお)は「三菱は金曜会といいますか、社長会、あれでほとんど大きな方針は決めていますね」(『実業の日本』1967年4月15日号)と語っている。
これに対し、三菱金曜会では「議題として増資計画、社債の発行、寄付問題その他の計画などが報告され、議論される程度で決議機関ではない」(『週刊東洋経済』1960年12月24日号)という証言が多い。
1990年代の日米構造協議で社長会が問題になった時、当時の「三菱金曜会」世話人代表・三村庸平(みむらようへい)は以下のように語っている。
「私は、三菱グループとしての戦略を話す立場にない。だれも話せやしない。そもそもグループの戦略なんてないのだから。金曜会というのは、同じルーツを持った会社の『同窓会』にすぎない。(中略)米国からは、社長会の議事録を公開せよとの要求もあるが、金曜会など実質は15分。議事録と呼べるものなど最初からない。
確かに、私たちは三菱の名前とスリーダイヤのマークに誇りを持っており、自動車にしても電機にしても三菱のブランド名で海外に出ているので目立ちやすいという面はある。(外部から三菱企業に買収の動きがあったら)、その時は各社が力を合わせて防ぐことになるだろう。歴史が築き上げた信用の社名と商標は守り抜かねばならない。名を汚すような相手には渡すわけにはいきません。ファミリーなのだから(談)」(『朝日新聞』1990年4月23日)。
■現在、ガバナンスから外れた金曜会で、重要事項は決定されない?
「三菱金曜会」の役割は時代とともに変化していったようだ。三菱鉱業セメント社長・大槻文平(おおつきぶんぺい)は
「金曜会発足当初の大きな仕事といえば、私にも関係の深い三菱セメントの設立がある。(中略)その後、グループの総力を結集した新規事業、たとえば石油化学や原子力などへの進出に際しても、金曜会は一定の役割を果たしたが、しかし時代の流れとともに状況も変化し、グループ内の競合が目立ちはじめ、それを調整しようにも、支配力と統制力のない金曜会の限界がみえてきた。(中略)金曜会の性格は、このあたり(1964年の組織整備:引用者註)から、商号処理、寄付処理などを主とするサロン的な存在になっていった」(『私の三菱昭和史』)
と語っている。
■50年前の金曜会では「オイルショックの予言」があった
つまり、結成当初はグループでの共同事業を推進する上で欠かせない会合だったが、現在では単なる「同窓会」化しているということだろう。しかし、1970年代、平時の「三菱金曜会」はつまらない会合だったが、経営を左右するほどの情報を入手することが出来たという証言がある。
1973年9月の「三菱金曜会」定例会の席上において、三菱商事会長・藤野忠次郎(ふじのちゅうじろう)が1カ月後のオイルショックを予言。
「グループ内のあるトップは、『今まで何回か金曜会の例会に出席したが、正直言ってつまらない話が多かった。しかしこんどの藤野予言で、やっぱり出ていてよかったと思った』と感激をもらしていた」(『三菱商事を変革した男・藤野忠次郎』)。
だから、やめられないのかもしれないし、そうした恩恵にあずかることがないまま、社長を退任していったメンバーがいるのかもしれない。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005〜06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)