今年1月、演歌の女王・八代亜紀さんが亡くなっていたというニュースが流れた。突如体調を崩し入院し、そこからわずか111日で帰らぬ人となった。原因は持病ではなく突然発症したもの。再現ドラマで八代さんの闘病を紹介した。
去年、乾いた咳が出始めた八代さん。八代さんの誕生日前日に行われた生誕コンサートではいつもと変わらぬ歌声のようだったが、楽屋では手に赤い発疹が出ていると話していた。実はこれが重大な病気のサインだった。
医師には「膠原病かもしれません」と言われていた。膠原病とは体を守るはずの免疫細胞の異常で、自分の組織を攻撃し炎症を引き起こす病だ。
検査の結果が出るまでの間も仕事をしていた八代さんだったが、八代さんの膠原病は特に肺を攻撃するもので間質性肺炎を引き起こしていた。
肺の中には肺胞と呼ばれる部分がある。呼吸で肺に取り込まれた酸素は肺胞から血液に取り込まれ体全体に送られるが、間質性肺炎はこの肺胞の壁に炎症が起こり、壁が厚く硬くなり酸素の取り込みができなくなる病気だ。
一度壊れた肺胞の壁は元に戻ることはなく、肺胞の壁の損傷が進めば命に危険がある。八代さんは9月10日から3か月間の入院となった。入院の2日後、八代さんは休業を発表。
入院から2週間、免疫反応や炎症を抑える薬が効いたのか、すっかり元気に。このまま数値が落ち着けば、退院できるかもと思われた。
八代さんは入院中も「婆さん、何してたの?」と、50年来の付き合いがある元付き人・中村たつえさんに電話をしていた。
今から50年ほど前、八代さんの大ファンだったたつえさんはコンサートに頻繁に足を運んでいた。
地方のコンサートにも一番前にいるたつえさんに、八代さんは感謝の気持ちを伝えようと声をかけてみた。そして住んでいるのが東京だと知ると、帰りの車にたつえさんも乗せて帰ることにした。
たつえさんは身寄りがなく天涯孤独だった。
そんな状況を知った八代さん。しばらくするとたつえさんは八代さんの付き人になった。そしてやがて八代さんはたつえさんの年齢を考え、付き人ではなく、生涯一緒に暮らし面倒を見ることを決断した。
八代さんはたつえさんに「私ね、80過ぎても歌ってたいなぁ」と話していた。たつえさんも「80の『舟唄』が聴けるまで頑張って生きます」と、八代さんが80歳になった時の「舟唄」、それを互いの励みに生きてきた2人だった。
しかし、膠原病による自己免疫の暴走が八代さんの肺を攻撃し続け、体に十分な酸素が行き渡っていないという検査結果が。
そこから1週間、容体は急激に悪化。この時、八代さんの肺は医師も驚くほど急速に間質性肺炎が進行していた。医師からは「口から直接気管にチューブを挿入して、外から呼吸を補助してあげなければ危険な状況です」と言われたが、八代さんは「この声がなくなったら八代さんじゃないでしょ。歌えない人生は考えられない。歌えないんだったら、死んだほうがマシだわ」と伝えたという。
12月23日、入院してから104日。八代さんは振り絞るように、マネージャーに「婆さんのこと…たつえさんは私の歌をずっと守ってくれる人だから、何があっても見放さないでね」と伝えた。
12月30日、数日前から意識のなかった八代さんの元に皆が集まった。たつえさんは涙ながらに手を取り話しかけた。多くのスタッフ、仲間に囲まれ、八代さんは73年間という人生の幕を閉じた。
膠原病の治療について、金沢医科大学 血液免疫内科学 正木康史教授は「膠原病にもいろんな病気がありますけども、現在のところ、なかなか完治というのは難しい病気が多い。いずれの病気も、ステロイドホルモンや免疫抑制薬と呼ばれる薬を組み合わせて使って免疫の暴走を抑え症状を和らげるという治療が基本になってきます」「専門家が適切な検査と治療をすることによって、命に関わるリスクは以前に比べて随分低くなってきていると思います」と解説。
様々な症状が出る膠原病。八代さんの場合は自己免疫が肺を攻撃し急激に間質性肺炎が進んだというまれなケースで、わずか4ヶ月ほどで亡くなった。
八代さんの思い出を胸に生活しているたつえさん。「本当に幸せだったの一言ですね。感謝です。感謝感謝」と話してくれた。