◆ワイドショーと政治的無関心

 コメンテーターとしての笠松は単なる無関心な人でしかないのだろうか? ワイドショーと政治的無関心。ここでつい思い出してしまうのは、音楽の使用法や駄弁的語り口など、映像すべてが悪態をついているようにしか見えなかった映画『ジョーカー』(2019年)での台詞である。

 同作のクライマックス、主人公アーサー(ホアキン・フェニックス)が憧れの人気テレビショーに出演して「僕は政治には無関心」と発言する。司会者マレー(ロバート・デ・ニーロ)を射殺したあげく、暴徒化した民衆からカリスマ的支持を受ける。政治的無関心者による社会的行動が、世界の不都合な真実を明かしてしまった。

 笠松にとってのワイドショーも不都合なものでしかなかった。つまり、キャスティング云々含めて、わざわざ出演する必要があったのかということ。政治の話題にコメントをするとわかっていて、ワイドショーの場に出演していること自体がれっきとした政治的なひとつの態度表明でもある。

 はっきり政治の話をしなくたって、常日頃から社会に参画するぼくらはどうしたって無意識のうちに政治的存在である。政治的無関心を「今の若者は!」的な論調でいちいち批判することがそもそも野暮なのだ。

◆ヤクザ役で出演した笠松の希少な気質

「憲法には言論の自由が定められている。それに従って語るだけ」

「どうして芸能人が原発問題を語るのか」と記者から聞かれた菅原文太が簡潔に答えている。あぁ、文太さんのような方がいたらなぁ。晩年の菅原は政治的な人だった。2014年の沖縄県知事選挙の演説台に立った名文句がある。

「政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせない事、安全な食べ物を食べさせる事。もう一つは……、これはもっとも大事です。絶対に戦争をしない事」。

 一方で彼は映画俳優として、加藤泰監督の『緋牡丹博徒 お竜参上』(1970年・雪に落ちるみかんの美しいこと!)や加藤監督の助監督だった本田達男監督のデビュー作『まむしの兄弟 お礼参り』(1971年)など、昭和のヤクザ映画スターの金看板で娯楽を享受する映画観客をただただ楽しませた。

『TOKYO VICE』(WOWOW、2022年)で若いヤクザ役を演じた笠松のたたずまいも素晴らしかった。あれは今どき希少な映画俳優の気質である。菅原文太をわざわざ引き合いにだしてまで、別に笠松の無関心そのものを擁護しようというわけではない。

 日本では芸能人が政治的なものにからんだ発言をするといつもこうなる。政治的発言をはっきりしたら政治的発言はするな。政治的無関心を表明する発言をしてもこうした似たような賑わいになる。

 何が政治的で何が政治的でないのか。そして芸能人が政治的発言をしたら干されるのか。そんなことに関心を寄せることがそれこそ「時間もったいなくない?」と強調しておきたい。総選挙は近い。不都合な世界を生きる国民が、また別の人を選びなおすことになるのか、どうか。

<文/加賀谷健>

【加賀谷健】
音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu