◆大学病院で下った発達障害診断
転院先の大学病院では、初診時は、1時間以上かけた、医師の問診とチェックリストの記入が待っていた。2回目の診察で下ったのは、自閉スペクトラム症(ASD)と注意欠如多動症(ADHD)の併発という結果だった。
「『はあ?』と思いましたよ。僕は、発達障害というと、イーロン・マスク氏のようなギフテッドにしか下らない診断というイメージを持っていました。だから、『僕の才能は何ですか?』と聞くと、カウンセラーが『30年も書いているんだから、あなたの才能は文章です』と渋々答えてくれました」
そんな桑原氏に医師は手厳しかった。
「『生活が大変なんです』と言ったら『これからどうするんですか?』と聞かれました。『どうしましょうかね?』と答えると『さすがADHDですね。計画性ないね!』と言われました」
桑原氏の幼少期には、発達障害という概念自体がなかった。発達障害者支援法が日本で施行されたのは2005年だ。まだ新しい概念だ。桑原氏は驚きから、長年一緒に仕事をしてきたデザイナーに知らせたが、彼女に驚きはなかったという。
「“外出先の道端であっても地面にバッグの中身を全部放り出して財布を探す”、“独り言を言いながら駅のホームを歩き回る”、“仕事中、カッとなるとパソコンを叩き壊す”、“会話していると文脈を無視して急に話題を変える”など、自分の特性を列挙されました」
今、振り返ると、発達障害の特性だと思えるものは思い当たるという。
「飲み会やカラオケ、キャバクラなんかも、1回目は誘われるんです。だけど、2回目以降は誘われなくなる。何かその場に合わないことを言っていたんでしょうね。20〜30人の集団がとにかく恐怖でした。コミュニケーションが苦手で、雑談ができません」
◆発達障害の診断を受けただけで自分は変わらないのに
桑原氏は、発達障害の診断が下ったこと自体よりも、周囲の友人・知人に話したら、離れて行かれたことがつらかったという。
「10年くらいの付き合いがある男性の友人がいました。診断が下ったことを伝えると、LINEは未読になり、音信不通になりました。他にも数人、音信不通になった人がいます。発達障害診断を受ける前後で、僕自身は変わっていないのに…。恨みはないですが、寂しいです」
そんな桑原氏を「熟年離婚された人みたいに落ち込んでいる」と言う人もいた。だけど、幸いなことに理解してくれる友人・知人もいた。
「今も発達障害診断を受け入れられているかといったら、受け入れている最中です。頭では分かっていても、心がついていかない。だけど、今後は、理解してくれた友人・知人たちのためにも、本を出版するなど、ポジティブなことを知らせたい。
生まれてきた時代や場所・環境って、個人ではどうにもならない要因ですよね。昭和時代を美化するつもりはありませんが、昔は『規格外』の人間にも寛容だったからこそ、僕は食べていけていた。ラッキーだったと思っています」
時代の流れにより、「個性」が「障害」と言われることも、その逆もあり得ることだ。個性なのか、障害なのかのラインは、時代や環境の変化による流動的なものなのではないか。
<取材・文/田口ゆう>
【田口ゆう】
ライター。webサイト「あいである広場」の編集長でもあり、社会的マイノリティ(障がい者、ひきこもり、性的マイノリティ、少数民族など)とその支援者や家族たちの生の声を取材し、お役立ち情報を発信している。著書に『認知症が見る世界 現役ヘルパーが描く介護現場の真実』(原作、吉田美紀子・漫画、バンブーコミックス エッセイセレクション)がある。X(旧ツイッター):@Thepowerofdive1
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