[画像] FC町田ゼルビアのミッチェル・デュークが語るJリーグ初体験時の思い出「ロンドのボールが奪えなかった」

Why JAPAN? 私が日本でプレーする理由

FC町田ゼルビア ミッチェル・デューク インタビュー 前編

Jリーグは現在、じつに多くの国から、さまざまな外国籍選手がやってきてプレーするようになった。彼らはなぜ日本でのプレーを選んだのか。日本でのサッカーや、生活をどう感じているのか? 今回はFC町田ゼルビアのFWミッチェル・デュークをインタビュー。これまでのJリーグでプレーしてきた清水エスパルス、ファジアーノ岡山在籍時の思い出。そして現在の町田でのプレーを選んだ経緯を語ってくれた。

中編「ミッチェル・デュークが教えてくれたヘディングの秘訣」>>
後編「ミッチェル・デュークが『ワクワクする』というFC町田ゼルビア優勝への挑戦」>>

【清水でテクニックの高さに驚かされた】

 FC町田ゼルビアのナイスガイ、ミッチェル・デュークはいつも弾けるような笑顔を見せる。この日もチームの練習のあとに指定の部屋に現れるなり、チャーミングな笑顔で右手を差し出してきた。


FC町田ゼルビアのFWミッチェル・デューク。Jリーグでは今季が通算8シーズン目のプレーとなる photo by Kishiku Torao

「先日のミックスゾーン以来だね。よろしく」

 現在33歳のアタッカーは、遅咲きの選手と言って差し支えないだろう。コツコツとキャリアを積み上げ、30歳を過ぎてからオーストラリア代表で歴史に名を残し、クラブでも偉業に挑んでいる。そのポジティブな姿勢で。

 出生国オーストラリアのセントラルコースト・マリナーズでプロのキャリアを歩み始めた彼は、そこで期限付き移籍の期間を含めて5シーズンを過ごしたのち、清水エスパルスに加入。それは2015年2月のこと、24歳での初の海外移籍だった。

「セントラルコースト・マリナーズでAFCチャンピオンズリーグ(ACL)に出場し、そこで柏(レイソル)や(サンフレッチェ)広島と対戦し、相手チームの選手の高いクオリティーが強く印象に残った。Jリーグはアジアのトップリーグだと思うし、これほど良質な選手たちのなかで揉まれてみたいと、ずっと考えていたんだ」

 実際に清水に来て練習に加わると、予想以上にレベルが高かったという。彼の母国のAリーグとは、大きな差があったようだ。

「何より、テクニックの高さに驚かされたよ。ユースの選手でも、ボール扱いやパス、タッチなどは、すでに完成されていると感じた。オーストラリアの同年齢の選手たちとは、その点では比較にならないほどだった。

 自分も初めのひと月半くらいは、チームメイトのスキルについていくのがやっとだった。なにしろ、ロンド(アップや練習でするボール回し)で守備者になると、ほとんど球を奪えず、ずっと走らされていたからね。いや本当に、彼らのボール捌きには舌を巻いたよ。

 ただ、僕は自分の能力を高めたくて、清水への移籍を決めたんだ。だから必死に食らいついて、じきにそのプレー水準に慣れていった。そして結果的に、自分はそれ以前と比べてものすごく成長できたのだから、あの決断を振り返ると、すごく幸せな気分になるね」

【ファジアーノ岡山のオファーに即答】

 とはいえ、清水では1年目に降格を経験し、J2での2年目にはヒザに重傷を負い、シーズンの大半を棒に振った。チームが1年で再昇格したあとの3年目は、J1でプレーしたものの、本来とは異なるポジションを任されることもあった。

「それまではストライカーやウイングとしてプレーしてきたのに、清水ではサイドハーフで起用されることもあった。スタミナや走力には自信があるし、そこを評価されたからこそ任された役割だったと思う。でも、僕はアタッカーだから、すっかり楽しんだかと言われると、そうではなかった」

 4年目には少しずつ出番が減っていき、当時のパートナーと話し合った結果、母国のウェスタン・シドニー・ワンダラーズへ移籍。その後のサウジアラビアのアル・タアーウンでの半年間の在籍を含めた2年半、日本を離れていたが、2021年夏に再び来日。東京五輪に出場した。

「五輪代表の選手として日本に来ることになった時、日本に戻れば、また日本でプレーしたくなり、また日本で暮らしたくなるだろうと思っていたんだけど、本当にそんな心境になった。そして五輪後にファジアーノ(岡山)から声がかかり、即答。イエスと言うのは簡単だったよ」

 シーズン途中に加わった岡山では、もっとも得意とするセンターフォワードに固定され、初のフルシーズンとなった2022年には、クラブ史上最高となるJ2での3位フィニッシュに貢献した。

「ファジアーノはJ2のクラブだけど、それはまったく気にならなかった。当時はほかのオプションがあまりなかったし、自分にはJ1でやれるクオリティーがあると信じていたから、J2で活躍すれば、道は開けると思っていたんだ」

 実際、そのとおりになった。まず直後のカタールW杯に、オーストラリア代表の一員として出場。31歳にして初めて世界の檜舞台に立ったデュークは、フランスとのグループ初戦(1−4の敗北)から、のちに優勝するアルゼンチンとのラウンド16(決勝トーナメント1回戦/1−2の敗北)までの計4試合に先発し、グループ2戦目のチュニジア戦では、この試合で唯一のゴールを決めて、オーストラリアの同大会初勝利の立役者となった。

【町田のプロジェクトは実に美しいものと思えた】

 W杯で得点したストライカーには当然、世界中のクラブから声がかかったが、それでも彼はFC町田ゼルビアを新天地に選んだ。

「イングランドのチャンピオンシップ(2部)、サウジアラビア、カタール、そして日本と、多くのクラブからコンタクトがあった。そのなかでも、町田のプロジェクトは実に美しいものと思えた。

 その頃に新たに就任した(藤田晋)CEOは勝負師で、リスクを恐れない。個人的にも、成功を収めるためには時にリスクを取る必要があると思っているから、大いに共感したよ。もちろん、彼には勝算があるはずだけどね。そのために、新しい監督を招き、多くのいい選手を獲得していることも教えてもらった。

 このクラブには大きな野望がある。どのリーグにも、現状維持で満足しているクラブはあると思うけど、僕は野心あふれるクラブでプレーしたいと思った。それは自分の考え方と同じだから」

 そして見事に、1年目の昨シーズンにJ2制覇に寄与し、今季はJ1で上位戦線を賑わせている。今季は日本で迎える通算8シーズン目。これまでに対戦したディフェンダーで、デュークをもっとも手こずらせたのは誰だろうか。

「Jリーグには本当に多くのすばらしいディフェンダーがいる。まず思い浮かぶのは、横浜(F・マリノス)の畠中槙之輔。それから代表のチームメイトでもある(アルビレックス)新潟のトーマス・デンだ。彼の相棒の(舞行龍)ジェームズもタフだね」

 デュークはそう言って、また、にっこりと微笑んだ。

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ミッチェル・デューク 
Mitchell Duke/1991年1月18日生まれ。オーストラリア・ニューサウスウェールズ州出身。セントラルコースト・マリナーズのユースチームから2011年トップチームデビュー。2015年から清水エスパルスで4シーズンプレー。2019年に母国のウェスタン・シドニー・ワンダラーズへ移籍し、途中サウジアラビアのアル・タアーウンを経て2021年まで在籍。同年の夏にファジアーノ岡山に移り、1シーズン半プレー。2023年からはFC町田ゼルビアで活躍している。オーストラリア代表としては東京五輪、カタールW杯に出場している。