続けて「初めはグラフィックデザイナーとしてアルバムのデザインをしていたが、私に権限はなかった。例えば、写真を私の思い通りには撮れなかった。もらった写真だけでデザインをしなくてはならず、ジレンマがあった。『年次というものがあるから学ばないと』という思いで、初めから出しゃばってはいなかった」とし「他人が撮ってくれる写真をもらってグラフィックデザインをした。残念さがあって、スタイリストに『このようなスタイルで撮れるようにしてみよう』と言いたかった。その時も20代だったが、スタイリストが私の言葉を聞くだろうか。どこからか転がってきた子どもがそのように言ってきても、聞きたくないだろう」と付け加えた。

ミン・ヒジンは「当時はアイドルが雑誌社からとても冷酷に断られていた時期だった。とてつもない壁があった時代だ。今のように韓流というものはなく、蔑視されていた時代だった。H.O.T.に関心がなく、よく知らないまま会社に入り、スタイリストにディレクションしながら制作することができた時期が、少女時代の1stCDだった。ジャケットデザインはスタイリストと話しながらできたが、ミュージックビデオは権限がなかった。とっても悔しかった。見たら悔しくなるのでミュージックビデオは見なかった」と話した。

上司とのわだかまりの解決方法について、ミン・ヒジンは「上の人たちと仕事をするとき、解決方法はない。全員性格が違って、上司も全員違う。どのようなノウハウがあるのかなどを簡単に得ようと思うのか。この世には簡単に得られるものは1つもない。各自の場所で、それぞれの上司に対する把握をうまくしなければならない」と回答。また「『あいつをどう煽てればいいか』『あの人をどう説得したらいいか』など、自分だけのノウハウがなければならない。コミュニティに投稿しても意味がないし、悔しいと思ってはいけない。幼い時、私が何でもないときに私を引き取ってくれた場所で、私の試行錯誤を我慢してくれた会社。あのようなものを“学ぶ”と言うと思う。組織と社会を学んだ」と強調した。

自身がやりたいことをしたいという思いで、ADORというレーベルを作りたかったというミン・ヒジンは、6ヶ月間続いているHYBEとの葛藤に言及した。

ミン・ヒジンは「正直私の価値を換算してくれるお金も重要だが、それよりも大切なことが世の中にはとても多い」とし、自身の目的は会社を設立してお金を稼ぐことではなく、自身の人生をテストしてみることだと強調。特にこの日、HYBEとの訴訟過程で莫大な金額を支出したことも明かした。

彼女は「大概の人が耐え難いと思う。訴訟費用が今まで23億ウォン(約2億5000万円)かかった。ずっと意味のない訴訟をして対応し続けたら破産する構成だ。私はお金を集めるタイプではない。皆さんが思うほどお金持ちではないが、私が訴訟費用のために家を売らなければならない」と明かし「私は正直、本当に幸いだと思った。これのために家を持っていたんだなと思った」と説明した。

また「私も蹴り飛ばしたいが、お金がないと訴訟も対応もできない。夫と子がいないことに本当に感謝した。私に夫や子がいたら悩んだだろうが、私はひとりだ。3ヶ月で訴訟費用が数十億ずつ増えていくのに、一般の人が耐えられるだろうか。絶対にできない。『私が勝たなきゃ』と考えるようになった」と明かした。

続けて「このような対立をなくしたい。誰かが耐えられるまで耐えると、過程というものが生まれる。私のような人がいれば、のちにアドバイスをしてあげられる。お金がある人が勝てるという戦いにならないように。私が耐えられるところまで耐えてみる」と語った。