[画像] 手術室には産婦の絶叫が響き…麻酔が効かないままの「切腹カイザー」はなぜ繰り返されたのか

 近畿地方のある国立大学(以下、A大学)附属病院で、「グレードA」の超緊急帝王切開が行われた時のこと。手術室には、金属製の器具の音や心電図モニターの単調な音が刻まれ、スタッフはキビキビと動いていた。

【画像】手術室には産婦の絶叫が響き…麻酔が効かないままの「切腹カイザー」について告発した文書

 後期研修医が産婦の腹に保冷剤を当てて、麻酔の効果を確認しようとしたその時、麻酔科医Xの怒声が手術室に響き渡った。

「俺が穿刺(せんし)したんだから効いているに決まってんだろ!! 確認するな!!」

 X医師の有無を言わさぬ鋭い視線。上級医に研修医が口答えできるはずもなく、執刀が始められた。

 しかし、実際には麻酔が効いていないケースもあった。ある時、メスが入れられた直後、腹を切り裂かれた産婦は手術台で悲鳴を上げた――。


A大学附属病院(筆者撮影)

麻酔が効いていない産婦の腹にメスを…

 グレードAの超緊急帝王切開は、子宮破裂など、産婦や胎児の命に関わる事態に陥った時に行われる。手術の方針決定後、他の要件を一切考慮することなく直ちに手術を開始し、30分以内に児の娩出をはかると定義されており、同意書を取ったり術前検査をしたりする余裕はない。

 このA大学附属病院では、2018年から2021年頃にかけて、麻酔が効いていない産婦の腹にメスを入れて帝王切開(カイザー手術)するという医療過誤があり、その場にいたスタッフの間で「切腹カイザー」と呼ばれるようになった。背景には、A大学麻酔科に在籍しているX医師によるパワハラ問題や、常軌を逸した医療行為があると考えられている。驚くべきことにA大学で切腹カイザーが行われたのは一度や二度のことではない。

 すでにA大学を退職している麻酔医の山口薫氏(仮名)は、在職中に切腹カイザーが行われたこと、度重なる周術期死亡、X医師によるパワハラ問題などを、院外の仲田洋美医師(ミネルバクリニック院長)に文書で報告した。仲田医師は、その文書を取りまとめ、所属を明かして実名で全国の医学部麻酔科宛にFAXし、厚生労働省にも原文を送付した。

四肢を柔らかい布で手台や足台に固定される

 冒頭のシーンは、研修医が患者に対して麻酔が効いているかどうかを確認するためコールドロステストを行おうとしたときのものだ。コールドロスは、冷えた保冷剤や氷を腹部数カ所にあてて行うテストのことだが、これを行わずに麻酔の効果判定をすることはできない。しかし、X医師はそれを行うことを断じて許さず、逆に研修医を怒鳴りつけたのだった。

 この時、X医師が導入した麻酔は効いていなかった。産婦は、X医師の怒声が響き渡る中、腹を切り裂かれ、痛みにより絶叫したという。

 帝王切開する場合、産婦は裸で手術台の上に仰向けになり、手足が落下して神経障害を起こさないよう、四肢を柔らかい布で手台や足台に固定される。点滴の管や尿道カテーテルも入っているので動くこともままならないのだが、緊張と不安の中、否応なしにメスを入れられたのだった。

 通常の予定帝王切開では、ビキニラインに沿って横に切開することもあるが、グレードA超緊急帝王切開の場合、一刻を争っているため縦に切開することが多い。ヘソの下から恥骨に向かって10〜12cmほど、皮膚表面から真皮まで一気に加刀、切開する。

 過去にX医師に切腹カイザーをされた別の女性は、「地獄の痛みと恐怖だった」と語っている。

パワハラと医療安全を無視した手術室

 切腹カイザーの現場には、後期研修医のほか、産婦人科医や手術室看護師、助産師もいたはずだが、なぜ誰もX医師を止められなかったのか。主な原因のひとつに、X医師のパワハラによる恐怖支配がある。

 仲田医師の告発文によると、X医師によるパワハラは、

〈手術室内に響き渡るような超大声で後期研修医を怒鳴りつけ、泣かせる〉

〈根拠に乏しい、30年前に日本で行われていたようなX医師の麻酔管理を後期研修医に半強要する〉

〈専門医の資格取得に必要な症例経験を後期研修医にさせない〉

 など、職務上の地位を利用して行われた。

 いずれも適切な指導と呼べる範囲を超えており、人前で怒鳴りつけるといった行為が常態化していたため、部下の医師たちは精神的、肉体的に傷つき、職場を失うのではないかという恐怖や自己研鑽の機会を奪われる絶望に囚われていった。

 また、X医師は、関東の国立大学医学部を卒業後、M元教授に追従してA大学に来たのだが、両医師の市中病院麻酔科との折り合いは非常に悪かったという。

「両医師がいるのなら大学へ人を派遣したくないという市中病院麻酔科部長の意見もあり、X医師の存在ゆえに、A大学臨床麻酔部での勤務を避けている初期研修医、後期研修医の話も聞こえてきます」(仲田医師)

X医師が“都合のいい麻酔医”だった理由

 実は、M元教授のパワハラも院内で問題になっており、A大学はM元教授の部下だった男性医師から訴訟を起こされ敗訴している。医療技術の伝承ではなく、師弟間でパワハラのDNAが受け継がれたと言っても過言ではない。

 では、切腹カイザーの執刀をした産婦人科医や他の手術を担当した外科医がパワハラに怯えていたのかというとそうではない。X医師は、彼らにとって“なくてはならない存在”でもあった。

「A大学のある地域では麻酔科医師不足により『自家麻酔』と言われる外科医による麻酔がいまだに多く行われており、外科医たちは、麻酔科専門医師が麻酔をかけてくれるだけでも良しとしていました。また、状況に応じたさまざまなバリエーションの麻酔を当該地域、特にA大学の外科医はあまり見たことがないようで、X医師の行う麻酔が標準的だと思い込んでいました」(仲田医師)

 それだけではない。X医師は、外科医がどんな無理を言っても引き受けてくれる“都合のいい麻酔医”としても重宝されていた。

「X医師は症例の重症度、緊急性、当日の手術室全体の運営を検討することなく、医療安全をまったく度外視して外科医の言いなりに症例を引き受けていました」(仲田医師)

 こうした証言から、A大学では、執刀医が麻酔医のゴーサインを待たずに執刀することが常態化していた可能性を否定できない。

切腹カイザーについて専門家の見解は…

 A大学における切腹カイザーは、主に超緊急帝王切開の時に行われたという。このような処置は、産科医療の現場では一般的に行われているのだろうか。産科麻酔に詳しい白石衛医師(仮名)に解説してもらった。

「脊髄くも膜下麻酔は、硬膜とくも膜が重なり合っている、そのさらに奥に針を進めて脳脊髄液中に局所麻酔薬を注入する。髄液があるところまで針が進んだかどうかは、針の内側の芯を抜いてみると、髄液が針の中を逆流してくるので分かる。1回で成功することもあるが、針の向きを変えたり、針を刺す場所を変えたりする必要があることもしばしばだ。

 局所麻酔薬を注入した後、麻酔効果が胸のあたりまで及ぶと、手術中の痛みを取り除くことができる。効果が出始めるまでには5分から10分かかり、麻酔がしっかり広がるまでに30分くらいかかる」

 白石医師は、「状況によっては、脊髄くも膜下麻酔が十分に広がるのを待たずに執刀を開始することもあるが、A大学で行われた切腹カイザーについては、まったく理解できない」と何度も首を捻った。

「超緊急帝王切開で児の娩出を最優先したい時に、脊髄くも膜下麻酔の効果が十分に広がるのを待たずに執刀を開始することは、ごく稀にある。皮膚切開の痛みが取れていることが前提だが、手術操作がお腹の深いところに及ぶと、痛みや圧迫感を感じることがあるので、苦渋の決断だ。

 執刀から1、2分で児を娩出できるが、娩出後に余裕ができた時点で全身麻酔に切り替えるのが普通だ。切り替えなかった理由については、母体の全身麻酔の危険性が高いと判断したのかもしれないが、分からない」

通常、入眠前に執刀を指示することはない

 一方、埼玉医科大学総合医療センター麻酔科准教授の松田祐典医師は、産科医と麻酔科医のコミュニケーションエラーにより、こうした事態に陥ることもあると語る。

「帝王切開の場合は、全身麻酔をかける前に手術の準備をして、産婦人科の医師がスタンバイします。その次に全身麻酔をかけるため、麻酔科の医師が同僚の医師に麻酔を『始めてください』と言います。ただ、外科医が自分に対して『始めてください』と言われたと勘違いして手術を開始してしまうということもあります。そうしたコミュニケーションエラーが起こらないように、言葉を選んでやらないといけない。

 ただ、多くの麻酔科医も産婦人科医もこうした事例を経験したことがないので、コミュニケーションエラーに関する意識が低いと思います。海外では訴訟になっているケースがいくつもあります」

 前出の白石医師は断言した。

「麻酔薬を投与し、患者が入眠する前に執刀を指示することはありません」

 同じような事例が他の病院でもあるのではないかと、厚労省に当たってみたが、そのような報告はないという。また、A大学の件に関しては、「個別の案件には答えられない」と返答した。

 ただ、日本医療機能評価機構のデータベースには、1件、本件と似た事例があった。切迫早産で入院中の女性が子宮破裂を起こし超緊急帝王切開になったが、産婦人科医が手術室や麻酔科への連絡を失念。麻酔科医による麻酔導入を待たずに加刀を行った医療事故だとされている。

今なおA大学に在籍するX医師

 なぜこれほどまでに切腹カイザーの医療事故報告は少ないのか。法律事務所、ALG&Associatesで産婦人科の医療事故を専門に扱う井内健雄弁護士は、こう指摘する。

「帝王切開の場合、娩出して縫合したら身体は元に戻ります。仮に麻酔が効いていたとしても傷跡は残るので、身体的には大きな違いがわかりません。PTSDになったとしても、その人の個性の問題ということになってしまいがちです。損害賠償の評価は交通事故の基準が使われ、後遺症で等級が決まりますが、精神的な評価はほとんどされません。後遺障害等級は認められないのです。切腹カイザーを裁判で争って示談にしても、満足できるような賠償がなされることがないのが実情です」

 X医師は、日本麻酔科学会指導医、日本小児麻酔学会認定医であり、現在もA大麻酔科の講師としてスタッフ一覧に掲載されている(2024年8月31日現在)。

 A大学麻酔科は、医師の一斉退職などにより医師が18名から4名にまで減少していたが、2022年4月に新しい教授を迎え、体制を一新。「患者さんの安全と安心を何よりも優先する」としている。しかし、複数回あった切腹カイザーについては、いまだ事故調査委員会は設置されておらず、公式な発表もなく闇に葬られたままである。

 A大学医学部附属病院は、県内唯一の特定機能病院であり、県民はここに来れば高度な医療を受けられると信じて疑わない。さらに、集約化が進められる中、地域周産期母子医療センターとしてリスクの高い妊産婦や新生児の命を繋ぎ止める責務を負い、地域全体の周産期の医療体制の整備、拡充においてリーダーシップを発揮しなければならない立場でもある。しかし、手術室という密室で切腹カイザーが行われた事実を隠蔽して、真の高度周産期医療を実現できるのだろうか。

 A大学に、切腹カイザーについて把握しているのか、なぜ事故調査委員会を設置して原因究明しないのか、X医師を雇用し続けるのかと質問したが、期限までに回答はなかった。その後、電話で重ねて尋ねたところ、「コメントは控えたい」という回答に終始した。

(渡辺 陽)