[画像] 人為的ミスが重なり墜落した飛行機 コックピットでは何が起きていたのか

1997年8月6日、グアム国際空港のすぐ近くの山にジャンボ機が墜落した。死者228人を出した大韓航空801便墜落事故。生存者はわずか26人。深夜、悪天候での飛行視界が悪い中での事故の主な原因は様々な人為的ミスが重なったことだった。

コックピットでのやり取りやブラックボックスのデータ、事故調査報告書や関係者への取材を基に再現ドラマで紹介した。

当時42歳の機長は、大韓航空の優秀なパイロットでこれまで数々の功績を残してきた。また、かつて韓国軍のパイロットとしても活躍し飛行実績も豊富だった。翌日は休暇の予定で1日あけてドバイ行きの便に乗る予定だったが、香港で宿泊し翌日グアム行きを担当する予定に変更となった。入社して10年、グアム行きは9回経験があり、1か月前にも一度行ったがその時は天候が良かった。副操縦士は同じく空軍での経験があり、機長の2歳年下のベテランだった。

夏休みシーズンで多くの乗客を乗せるため、この便は輸送能力が高いジャンボ機に変更されていた。当時のコックピットは3人体制で、機関士は50代後半のベテラン。グアム国際空港は滑走路の手前5kmに高さ約200mの山があり、注意が必要だという確認もあった。

この便に乗ることになった乗客の一人、広告デザイン会社で働いていたイ・ジョンファンさんは、家族と互いの両親7人でグアムへ行く予定だった。同じく乗客の一人、広告代理店で働くソン・ユンホさんは、友達のイ・ヨンホさんと決めたグアム旅行でこの便に乗った。

大韓航空801便は乗員・乗客254人を乗せ金浦空港から離陸。グアムへは約4時間のフライトで午前2時頃到着の予定だった。

4時間後の大韓航空機到着を待つグアム国際空港には、飛行機の離着陸を誘導する場所が2箇所あり、1つは、レーダー機器を使って空港から離れたところを飛んでいる飛行機に進路や位置を指示する地上レーダー管制所、もう1つは、飛行機が空港に近づいたら主に目視で離着陸の指示をおこなう管制塔だった。

この日は、当時の台風11号が北上して沖縄に接近していたため、それを避けるため高度を上げて飛行。高度41,000フィート、約12,500m上空を飛んでいた時機体が激しく揺れ始めたが、機長は飛行機を旋回させ積乱雲を避けた。

午前1時05分、グアムまで約100kmの地点。ここで801便はグアム国際空港のレーダー管制所と最初の交信を行なった。801便には着陸へ向け高度を下げるよう指示が出て、この頃着陸に関する打ち合わせを行なった。機長は「着陸はビジュアルアプローチで行います」と伝えた。ビジュアルアプローチとは、機長が滑走路や建物などを自分の目で見て着陸する方法。目視で飛ぶため、気候条件によって当然難易度は増す。だが機長は空港からの天気情報を確認していなかった。通常はそれをもとに着陸方法を打ち合わせするが、この時機長は空港周辺の天気を確認せず、着陸の打ち合わせをしたと思われる。

飛行機が滑走路へ着陸する方法として当時、主流になりつつあったのがILSと呼ばれる着陸装置を使った方法。ILSとは、滑走路近くから発せられる電波を受信し、安全に着陸することができる方法だった。1つ目の電波は、滑走路からずれていないか飛行機の横の位置をナビしてくれる「ローカライザー」、2つ目は、滑走路への進入角度、つまり飛行機の縦の位置をナビしてくれる「グライドスロープ」で、理想の着陸のための角度は3度とされていてこの3度よりも飛行機が上にいるか下にいるかがわかる。そしてもう1つ、滑走路までの距離を計算するための「DME」があった。はるか上空から測定するGPSよりも滑走路からの電波を受信するILSは誤差が少なく今でも使用されている。

機長は「滑走路までの距離を示すDMEは滑走路より手前、約5kmのところにあるので、実際の滑走路の位置は5kmプラスして考えるように」とコックピット内で伝えていたという。グアム国際空港の距離測定機は、360度電波を飛ばしやすい山の上にあった。さらに、グアム国際空港について「今グライドスロープが使えないらしい」と伝えていた。

この時空港では、グライドスロープが修理中で止められていた。そのため機長が滑走路までの距離をもとに適切な高度を判断することに。しかし上空にいた機長は、グアム付近が雨雲で視界がほぼない状態だと知らなかったと思われる。

事故の29分前、801便はレーダー管制の指示通り高度12,500mから降下を開始した。グアム時間午前1時20分、ハイシーズンのこの時期、機長はかなりハードなスケジュールをこなし、グアム便に乗る10〜9日ほど前に体調を崩し、抗生物質と痛み止めを病院でもらっていた。パイロットは原則、病気や処方された薬があった時は会社に報告しなければならなかったが機長は報告していなかったという。

801便は事故の29分前、着陸に向け降下を始めていた。

その頃、グアムの消防署では「今日みたいに湿気の多い日は、夜にブレーキホースが結露してサビの原因にもなる」と消防車からタイヤを外していた。

事故の20分前、機長はようやく天気情報を確認したと思われた。そして、打ち合わせになかった進路をとる。飛行機は積乱雲を避け、回り込むように高度を下げていった。視界が悪く目視では困難で計器のデータに頼る操縦になっていく。

天候が良ければ最適な進入角度を保ちながら直線的に降下していくのが通常だが、機長はこの時、天候が悪く視界が見えないため高度を段階的に下げていくステップダウン方式と呼ばれる方法でのアプローチを考えていた。

各空港には、滑走路までの距離に対してそれ以上下がってはいけない高度があり、段階的に高度を下げていくステップダウン方式がある。

機長は目視で先が見えない上に、進入角度のナビをしてくれるグライドスロープが使えない状況で、滑走路までの距離に適した高度を頭に入れながら操縦を行なった。だが、このステップダウン方式について機長は他のクルーには伝えていなかった。

801便は、滑走路まで約20km(11.5マイル)の地点で高度約800m(2,600フィート)まで下げ、水平飛行を始めた。副操縦士・機関士は、ベテラン機長の操縦を何も心配はしていなかった。その頃、外は想像していなかったほどの大雨だったと思われる。そして、今回の事故のきっかけとなるある現象が起きる。それは、使用できないと言われていたはずの進入角度をナビするグライドスロープの電波を受信したことだった。

管制官はグライドスロープが使えないことを告げたが、コックピットは滑走路に関しての返事しかしなかった。801便と同じジャンボ機を操縦していたこともある専門家によると何らかの電波によって誤作動したことも考えられたが、いまだに原因はわかっていないという。

しかし機長は、夜間かつ、雨雲で視界がほぼない中での着陸。もし信頼できる着陸誘導システムが使えるのなら…と思ってしまった。が、その一方で自分の頭の計算とグライドスロープの表示が違うことでさらに混乱していったと思われる。

午前1時40分(事故の2分13秒前)、滑走路まで約16km(9マイル)。このとき、グライドスロープの混乱があったからか規定の地点よりも降下するタイミングが遅れてしまった。それを取り戻そうと、慌てて高度800m(2,600フィート)から降下を始めた。

滑走路まで約14kmに近づくと、レーダー管制官は主に目視で誘導する管制塔へ引き継いだ。

午前1時40分42秒(事故の1分44秒前)。降下するにつれ、濃い雨雲でさらに視界は悪くなった。「アガナ管制塔6番左滑走路の状況は風向90度で7ノット、着陸を許可する」と管制官から着陸の許可を得て、視界が悪いまま、着陸の最終段階へ。

この時、飛行機は滑走路から約12km地点。グアム国際空港にはこの着陸の場合滑走路の約9km手前に近づくまで高度を約600mより下げない決まりがあった。しかし機長は、決まりの高度を無視して降下を続けた。それは使えないと言われていたグライドスロープの計器が、幾度となく動いたことが原因だった。この計器が着陸の手助けになってほしいと思うがためにある重大なことが頭から抜けてしまった。

それは滑走路との距離計測器・DMEだ。飛行機は通常、滑走路にあるDMEからの電波を受け、距離を把握する。だが、グアム国際空港ではDMEは滑走路から約5km手前の標高200mの山の上に設置されていた。滑走路まで実際は9km以上あっても、距離計器の表示は約5km差し引いた4kmほどになってしまう。当然、機長も距離計器が滑走路の手前にあることは事前にわかっていたはずだが、使えないはずのグライドスロープが動き、それにより降下のタイミングが遅れ、悪天候で視界が全くきかず、疲労も溜まっており、滑走路の手前5kmにある山に滑走路があると思い込んでしまった可能性がある。そして、滑走路へ進入するため慌てて高度を下げてしまった。

一方管制塔では、次々と来る飛行機への指示で801便が滑走路の手前で規定より降下していることに気づかなかった。そして管制塔は、もう1つの大切な装置を使用していなかった。それは最低安全高度警報システム。航空機が規定の最低高度を下回ったり、地上の障害物に接近したりした際に管制官に警報で知らせるシステムだが、グアム国際空港では、誤った警報アラームが頻発し、作業の妨げになるとアメリカ連邦航空局が例外的な判断を下し意図的に無効にしていた。それにより、801便が滑走路手前の山に急接近したにもかかわらず警報は鳴らなかったのだ。

警報は、通常滑走路に近づく際も鳴るため、滑走路はもう目の前だと疑わなかった。着陸を止めない機長に対して副操縦士・機関士はベテラン機長の考えにとっさに意見を言えなかったと思われる。

事故の12 秒前、最低高度の警告音が。9秒前、さらに急降下を知らせる警報もなったが機長は山が迫っているなど思ってもいない。

このとき地面まで60m。衝突7秒前、機長はもう一度着陸やり直しを訴える副操縦士の声を聞くも、その時には山までわずか40mほどの高さで急上昇は間に合わなかった。

グアム時間午前1時42分26秒ごろ、801便は滑走路の5キロ手前の山に激突した。一家で旅行していたジョンファンさんの父は、通路に放り出され奇跡的に助かっていた。必死に家族を助けようとしていた時飛行機が燃えていることを知り、外へと飛び出した。

グアム国際空港のアガナ管制塔では警報装置を切っていたため、すぐに墜落には気付かなかった。

1時50分、墜落から8分。山で狩猟をしていた地元住民が火事を通報。そして管制塔にも事故の連絡が。801便のコックピットはタワー管制官からの呼びかけにも応じず、レーダーにも801便の形跡はなかった。

そして別の飛行機の副操縦士から「現在、グアム島ニミッツヒルの斜面で大きな火の玉が見えています」と報告があった。

午前1時07分、事故から25分。管制サイドもようやく墜落に気づいた。友人とグアム旅行に来たユンホさんも助かっていた。椅子ごと飛行機の外に吹き飛ばされていたという。

事故から25分。事故現場から5kmの消防署に連絡が入った。しかし前述の通り消防車のタイヤが外れており、タイヤをつける時間が発生した。そして当時のグアム知事、カール・グティエレスさんにも連絡が入った。

ユンホさんは、必死で斜面を登り高台に逃げた。そこには他にも助かった人たちがいた。そこに友人・ヨンホさんの姿を見つける。

午前1時20分、ようやく出動できた救助隊だったが墜落の影響で石油のパイプラインが吹き飛び道を塞いでいた。グティエレスさんも到着し、歩いて現場に向かうことになった。

ユンホさんは絶望的な生存者を必死に励まし、救助を待った。墜落から約55分。ようやく救助隊は墜落した飛行機の残がいがある場所に到着した。そして、ユンホさんが逃げた山の上にも軍の救助隊がやってきた。救助ヘリで病院へ搬送され、ユンホさんも、友人のヨンホさんも一命をとりとめた。

応急処置を受けた生存者は米軍機で韓国の病院へ運ばれた。そこには事故直後、気丈に救助を行なっていたユンホさんも。実は腰を圧迫骨折していて動けなくなっていたのだ。角膜も損傷し一時目が見えなくなったというが、3か月ほど入院し無事回復した。ジョンファンさんの一家で助かったのは、ジョンファンさんの父親と、妻の父親の2人だけだった。コックピットにいた3人は全員死亡。機長のカバンからは鎮静剤が発見されたが、体内からは薬の成分は検出されなかった。

事故から2年後、アメリカの事故調査委員会が「大韓航空のフライトクルーに対する不十分なトレーニングにより機長が操縦手続きを規定通り行わなかったこと、また、副操縦士、機関士が、機長のミスを的確に判断できなかったとした」と事故原因の調査結果を発表。

そしてもう一点、グアム国際空港の重大な不備は最低安全高度警報システムを止めていたことだった。もし、最低安全高度警報システムが動いていれば事故の60秒前には、管制官から高度の間違いを伝えることが出来たはずだと指摘。被害者遺族へは大韓航空とアメリカ政府から損害賠償が支払われた。

この事故を受け、大韓航空は事前シミュレーション教育の強化、搭乗前の着陸方法の確認チェックの徹底が行われるようになった。その後、労働組合も出来、乗務員の勤務スケジュールは以前より守られているという。そしてグアム国際空港も、グライドスロープ、最低安全高度警報システムはもちろん、安全のためのシステムがしっかりと作動している。