◆名刺を渡してきた男の正体は

 何とも信じがたいことだが、その男性は図々しくも名刺を渡してきたという。

「差し出された名刺は、機転を利かせた上司が『わたくしがいったん預からせていただきますので』と受け取ってくれました。凍りついたままの私に、男性客は『春美さん、連絡待ってるよ。良かったら食事に行こう。これからも君の会社の便を使うから』と笑顔を向けてきたんですが、腹立たしさと緊張が一気に解けたことで、めまいがしてしまって……」

 クレームではなかったと理解した上司は、他の社員を呼び、男性客を別室に案内するようお願いした。男性客も名刺を渡せてスッキリしたのか、おとなしく退室したという。

「後日、上司に聞くと、男性客はある不動産会社の二代目社長だと教えてくれました。『名刺はこのまま私が預かっておくから』と言われ、もちろん連絡はしていません。あまりにも悪質な乗客だったため、注意喚起と私の汚名返上のため、他のCAたちも情報共有をしてもらいました。ただ当時は、今ほど迷惑客に対しての罰則がなかったため、私は泣き寝入りの形になってしまいました。何年経っても苦い思い出です」

 謝罪までの一週間、不安で眠れない日々を送っていた春美さんの心労を彼は理解しているのだろうか。「いまだにトラウマとなっています」と眉をひそめる春美さんの心の傷は深い。

文/蒼井凜花

【蒼井凜花】
元CAの作家。日系CA、オスカープロモーション所属のモデル、六本木のクラブママを経て、2010年に作家デビュー。TVやラジオ、YouTubeでも活動中。