K10という型式で登場した初代マーチ。写真は1983年の3ドア G Collet(写真:日産自動車)

1982年に日産自動車が送り出した初代「マーチ」。全長3785mmのボディに、1.0リッターエンジンを搭載した小さなクルマだが、フルモデルチェンジを迎える1992年までの間に残したものは、意外なほど大きい。クルマにおける「企画力のおもしろさ」を教えてくれたモデルだ。

20〜30年以上経った今でも語り継がれるクルマが、続々と自動車メーカーから投入された1990年代。その頃の熱気をつくったクルマたちがそれぞれ生まれた歴史や今に何を残したかの意味を「東洋経済オンライン自動車最前線」の書き手たちが連ねていく。

「マッチのマーチ」のキャッチコピーで鮮烈デビュー

私はマーチがデビューしたときのことを、けっこう鮮烈に覚えている。なめらかな面にボディと段差のないプレスドア。太いリアクォーターピラーも欧州的なテイストで、印象的だったからだ。


当時としては太めのピラーが後ろ姿を印象付けていた(写真:日産自動車)

特にリアからの眺めが、すっきりしたボディ面を際立たせていて、「日本車もずいぶん垢抜けたなぁ」と、いたく感心したものだ。現在、いろいろなところで指摘されているけれど、フィアットの「ウーノ]」(1983年)に似ていたのも印象的だった。

一部の資料には、マーチの基本デザインは「ウーノを手がけたイタリアのイタルデザインによるもの」とされている。しかし、イタルデザイン監修の作品集には、マーチへの言及はない。ウーノのプレスドアは「いすゞ・ピアッツァで最初試したもの」とはあるけれど。


フィアット・ウーノにはマーチと共通するデザインテイストが見受けられる(写真:Stellantis)

マーチの2300mmのホイールベースも、全長3785mmのハッチバックボディも、衝突安全基準などで車体の大型化が進む今の眼にはだいぶコンパクトに映る。けれど、当時はこのぐらいのサイズが基本だったので、発表時は別段、「小さいなぁ」などとは思わなかった。

マーチは、乗用も商用も広くカバーするマーケティングだったはずで、特に乗用車としては当時、大きかった若者マーケット向けに「マッチのマーチ」なるキャッチコピーを採用。

マッチ(近藤真彦)を起用した鮮烈で、シンプルだがメッセージ性の強いコピーが人口に膾炙(かいしゃ)したものだ。今でも、「マッチのマーチ」と覚えている人がけっこういる。

初代マーチの特徴は、広範囲におよぶマーケティングコンセプトにある。派生車種が多いのだ。標準モデルはやや頼りない感じのハンドリングだったが、パワーが上がると同時にシャキっとした足まわりで楽しかった「マーチターボ」が1985年に登場。


MA10ET型エンジンを搭載したマーチターボ(写真:日産自動車)

モータースポーツにも積極的に投入され、ベースになる「マーチR」が1988年に発売された。中でも話題を呼んだのは、スーパーチャージャーとターボチャージャーの、いわゆるツインチャージャータイプの930ccエンジンだ。

このツインチャージドエンジンは、1990年に発売されたマーチ「スーパーターボ」にも搭載される。このころ、マーチは世界ラリー選手権(WRC)にも投入されるなど、モータースポーツでの活躍ぶりも印象的だった。


1989年のサファリラリーに参戦したマーチ(写真:日産自動車)

「久米豊社長(在任1985ー1992年)の時代に、モータースポーツで勝てばクルマが売れると活動に力を入れるようになって、たとえば全日本ラリー選手権における1.0リッター以下のAクラスと1.6リッター以下のBクラスというカテゴリー(いずれも当時)のためにマーチを使いました」

当時、日産自動車の広報部に籍を置いていた関係者は、そう証言している。

レトロをトレンドに昇華したパイクカーも

並行するように、マーチをベースに開発されたのが「パイクカー」だ。スーパーコンセプターとも呼ばれた坂井直樹氏を企画スタッフに加え、大胆なボディをデザイン。1987年に「Be-1(ビーワン)」、1991年に「フィガロ」が発表され、大ヒットしたのだった。

この2台は、世界の自動車メーカーからも注目され、「レトロ(スペクティブ)」というコンセプトがデザインに採り入れられるきっかけを作ったのだから、歴史に残るモデルだ。


「Be-1ショップ」なる体感型ストアを南青山にオープンするなど話題になったBe-1(写真:日産自動車)


フィガロは2+2にキャンバストップを採用し、高級志向のクーペとされた(写真:日産自動車)

「僕が初めて出かけた日産の開発センター(神奈川県厚木市の日産テクニカルセンター)では、守衛室できびしく誰何(すいか)されまして、『真っ黒な服を着た変な人がきています!』とデザイン部に連絡されたのを覚えています」

坂井直樹氏が、のちに私に語ってくれた思い出だ。モータースポーツ活動に熱心な“硬派なマーチ”の開発陣にとって、レトロデザインの派生モデルはなかなか受け入れがたかったようだけれど、当時のデザイン部長の決断で企画にGOが出た。

パイクカーは、マーチのモデルチェンジが遅れたため、市場の興味をひきつけておくための“つなぎ”の役割とも言われたが、日産にとって重要なモデルになったことは間違いない。

1991年にはNISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル)と開催したワンメイクレース「ザウルスJr.カップ」のためのレーシングフォーミュラモデル、「ザウルス・ジュニア」のベースにもなった。


ザウルス・ジュニアはもともと市販前提のザウルスとしてコンセプトモデルが発表されていた(写真:日産自動車)

1992年になって、マーチはようやく2代目になった。当時は今よりもモデルチェンジサイクルが短く、たとえば「セドリック」などは4年きっかりでモデルチェンジしていた中で、10年というモデルライフは異例に長かった。遅れたのにはいろいろな事情があっただろうが、それだけ「売れたクルマ」だったということだ。

なお、2代目も欧州的なハッチバックであったが、丸みをおびたデザインになり、だいぶイメージが変わって、私は少々驚いた。


スクエアなスタイルから一転して丸っこい形となった2代目マーチ(写真:日産自動車)

Wikipediaのページには、「日本製コンパクトカーの中では異彩を放つ存在であり、日本におけるコンパクトカー市場の革命児とまで称された」と高い評価が書かれている。

「そんなもんかぁ」と、当時「妙に大人っぽくなっちゃったなぁ」と思った記憶を持つ私は、その記述を興味深く読ませてもらった。カブリオレとかワゴンの「マーチBOX」とか、派生車種はどれもカッコ悪いと思ったものだけれど……。

クルマの世界をおもしろくしてくれた


最終型となる1991年の初代マーチ(写真:日産自動車)

初代がクルマ文化の中に飛び込んだ先鋒だとすると、2代目はマーケットの中で作られたクルマ。「そこが違うんだよなぁ」と思うのだ。2代目もよく売れたクルマではあったが、文化を生み出した点で初代は偉大であった。


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1980年代、日産自動車は数々のエポックメイキングなクルマを送り出した。高性能だったりスタイリッシュだったり、特徴はさまざま。

そこにあって、1982年のマーチは地味といえば地味なベーシックカーだけど、上記のとおり多くの派生車種が生まれ、クルマの世界をおもしろくしてくれたのはたしか。この功績は、いつまでも残るものだろう。

(小川 フミオ : モータージャーナリスト)