「ガンバに攻められっ放しでゴール付近に全然運べなかったけど、岡野さんが入ったからボールが前に進むと信じていた。自分のゴールで優勝できて本当に嬉しかった」

 07年も輝いた。2位の浦和は8月15日に首位G大阪と敵地で対戦。負ければ勝点差は7に開き、勝てば1差となる大阪夏の陣だ。62分、決勝点となる抑えの利いたシュートをゴール右上に突き刺した永井は、「居残りで(GK加藤)順大とペナの外からコースに蹴り分ける練習をしてきた成果が出た。相手がガンバだけにすごく嬉しかったなぁ」と述懐。このゴールで20戦連続得点というチーム新記録を樹立した。

 初出場で日本勢初の頂点に立ったアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)は、日本人初のMVPを受賞する。浦和で忘れられない試合の1位には、セパハン(イラン)と争った決勝第2戦を選んだ。

 22分、ロブソン・ポンテの縦パスを預かり、ペナルティーエリアに入ると右足を強振。この決戦に向け“取れるぞ、振り抜け、振り抜くんだ”と自己暗示をかけて臨んだそうだ。「僕にはああいうシュートが少ないけど、チャンスが来たら小細工せずに振り抜こうと決めていた。取りたくて取ったゴールでしたね」。
 
 この優勝で出場権を獲得したクラブ・ワールドカップでは日本人得点者第一号となり、ワールドユース(現U−20ワールドカップ)に2度出場した日本人選手も永井とGK南雄太だけだ。まさに記憶にも記録にも残るアタッカーなのだ。

 07年末あたりから真剣に移籍を考え始めた。かつて移籍について相談した福田から、浦和で何かをなし遂げてから出るべきだと忠告されていた。ACLでチームに何かを残せたし、よそのクラブの景色も見たくなった。浦和が08年に高原直泰、エジミウソンのストライカーを補強したことも少なからず影響した。

 当時はゲルト・エンゲルス監督との確執が盛んに取り沙汰されたが、本当の理由はこういうことだ。

 09年に清水エスパルスに完全移籍。新しい環境に馴染めず、怪我も多発したことで苦難の3年を過ごした。J2横浜FCには12年から2年間在籍したが、故障もあって持てる力を出し切れなかった。ただ三浦知良との出会いは大きな財産という。「すべてをサッカーに捧げ、いくつになっても巧くなりたいと努力する姿は凄まじかった」と敬意を表した。
 14年には、関西リーグ1部のアルテリーヴォ和歌山の監督に就任するワールドユースの同僚、辻本茂輝に誘われ、初のアマチュアチームへ移籍。サッカーに情熱を注ぐ選手ばかりで刺激を受けたそうだ。翌年からJ2群馬で3年間プレーしたが、長女の小学校入学もあってセカンドキャリアを真剣に考え、自宅のある横浜市へ戻ることを決意。もうJリーガーへのこだわりはなくなった。

 18年から2シーズン、神奈川県社会人リーグ1部のFIFTY CLUBに加入し、日本フットボールリーグ(JFL)昇格を目ざした。この年からDAZN中継のJ2解説者1年生となる。

 永井はJリーグを離れた時点で第2の人生が始まったと認識する。

 その後は同じ神奈川県社会人リーグ2部、浦和で同僚だった阿部敏之が指揮を執るはやぶさイレブン(今季から厚木はやぶさFCに改称)へ転籍。2年目はコーチ兼任、1部に昇格した昨季は監督兼任で現役を続け、関東社会人大会を制して関東リーグ2部昇格を果たした。

 ところが論功行賞があったどころか、契約更改の条件面で折り合いがつかず、昨年12月にチームを離れた。永井は「監督として初タイトルは嬉しかったけど、クラブから功績に対する正当な評価を得られなかった」と残念がった。

 それでもサッカーへの気力や雄心は一向に衰えない。今年1月末、埼玉県社会人リーグ北部地区3部に所属するKONOSU CITY FCから声が掛かると、3月に監督兼選手として加わった。これまでのキャリアのなかで最も低いカテゴリーなのに引き受けた。