三重大学では2012年から「忍者」を研究している。その結果、黒装束や手裏剣といったイメージは後世に作られたフィクションであることが分かった。忍者の本当の姿とは一体、どんなものだったのか。サイエンスライターの五十嵐杏南さんの著書『世界のヘンな研究』(中央公論新社)より、一部を紹介する――。
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■義理と人情の世界で生きた忍者たち

忍者がまとめた忍術書のうち、有名なものに『万川集海(まんせんしゅうかい)』(1676年)がある。その中には、こんな趣旨の記述の数々がある。

忍者は正しい心を持つべきで、正しい心とはすなわち、仁義忠信を守ることである、と。陰謀や騙すことは、忍者としてよろしくない姿であり、私欲のために忍術は使ってはならぬ、そんなのは盗人と同じだ、と。正しい心は忍者本人だけではなく、その妻子や親族もみな持つべきだ、と。そして平素柔和で、義理に厚く、欲が少なく、理学を好んで、行いが正しく、恩を忘れないことが忍びとして必要な要素だ、と。

冷徹な騙し討ちのプロ、というより、清く正しい心とチーム精神を持った人が、忍者の理想像なのだ。

三重大学の国際忍者研究センター副センター長の山田雄司博士は、忍者は時に城の警備員として、時に戦闘員として、また別の時には情報を集めるスパイとして活躍してきたと語る。

「世界でのスパイというと、冷酷で感情もないイメージがあるかもしれませんが、忍者はまさに義理と人情の世界。命令を出す武将に忠誠心をもって働く。基本的に多くの人数で綿密に打ち合わせをして、チームで忍び込んだり情報収集をしたりすることが多いのです」

■本当の忍者に、ユニフォームなんてなかった

この他にも忍者の知られざる本当の姿を、国際忍者研究センターの研究者たちは次々と明らかにしてきた。例えば忍者のユニフォームである黒装束。本当の忍者に、ユニフォームなんてなかった。実は普段は農民の格好をしていて、情報収集する時になるとスパイのように、旅芸人や僧侶に扮(ふん)していたのだ。

黒装束の忍者が現れるのは18世紀初め頃の歌舞伎で、舞台の遠くから観劇していても忍者役が忍者だとわかりやすくするために、忍び装束が生まれた。手裏剣を使ったという史料もないため、後世に作られたフィクションだ。

そして女忍者のくノ一もいなかった。女性の武士がいなかったのと同じで、女性の忍者が現れるようになったのは昭和になってからだ。女性を使って情報を収集することは「くノ一の術」と呼ばれていたが、女性自身が忍者を生業にしていたわけではない。

■なぜ忍者は1日200キロも歩けたのか

他にも、忍者が携帯食として食べた兵糧丸(ひょうろうがん)の成分を分析して再現したり、忍者の呼吸法で呼気が1分間にも及ぶ「息長(おきなが)」の効果を脳科学者とタッグを組んで分析したり、スポーツ科学の専門家と組んで忍者が1日200キロもの長距離を歩くことができた秘訣(ひけつ)を分析したりと、現代科学の力を使った研究も行っている。

例えば忍者の歩行の研究では、一般的に歩くように後ろの足で蹴る歩き方と、着地する時に膝関節を緩める忍者特有の歩き方を比較し、筋肉の活動量と床からの反力を測定した。それによると、忍者の歩き方はももの筋肉の活動量は4倍近く増えるものの、より疲れやすいふくらはぎの活動はセーブできている上、ブレーキの少ない効率的な動き方をすることで疲労を軽減しながら長距離を速く歩くことができたとわかった。こうした研究をはじめ、現代人が参考にできそうな教えはたくさんありそうだ。

■海外メディアも注目する三重大学の忍者・忍術学

三重大学で忍術学の研究が始まったのは2012年のこと。以来、2017年に国際忍者研究センターが設立され、大学院で忍者・忍術学の専門科目が設立されたのはその翌年だ。

画像=三重大学国際忍者研究センター公式サイトより

大学院の実習ではかつて忍者がそうしたように、伊賀山中で敵に見つかりにくい低い姿勢で歩き、草むらを這い、ロープで梯子を作り崖を登り降りし、といったように、木が生えていて、凸凹があって石も転がっている環境で忍者の動きを再現する様子がメディアでも取り上げられた。

こうしたファンキーな面に着目されることが多く、海外メディアからは「ニンジャになれる専攻が日本のミエにある」と報道されてしまうこともあったが、実習の意義について山田さんはこう説明する。

「忍術書を読んでいても、『口伝』(口で伝える)と書いてある部分が非常に多くて、忍者について読んだだけではわからないところがたくさんあると思うんです。6歳の頃から師匠につき、忍術を継承している方に教えてもらって、忍者の体の使い方を知ることは意義があると思います」

■未開拓な学問に足を踏み入れた理由

山田さんが忍者の研究を始めるまでは、ほとんど忍者の研究はされていなかった。そんな未開拓な学問に山田さんが足を踏み入れたのは、三重大学が地域文化に貢献していく方針を取り始めたからだ。一地方大学として生き延びていくためには、地域に密着した活動をしていくべきだという認識があったという。

「忍者という存在は世界で名前も知られていて、本もいろいろ出ていましたが、案外しっかりした研究がなされていませんでした。どこから得たのか根拠がしっかり明示されないまま、いろんな本が書かれていました。大学がやっていくからには、『ここにこんなエビデンスがあるからこのようなことが言える』、というのを一つ一つ明らかにしていき、忍者という、日本文化の根幹になるようなものを研究していこう、ということで忍者研究が始まることになりました」と山田さんは振り返る。

「2012年に研究を始めた当初は、忍者はあまり資料を残さないし研究ができるのかなと思っていました。ですが伊賀(三重県)には伊賀流忍者博物館があって、そこに忍術書がけっこう所蔵されていたんです。これまでは外部に一切見せていなかったそうですが、『三重大学が研究するなら全部見て研究に使ってください』と申し出てくれて、忍術書の写真を撮って解読するところから研究を始めました」

■昔の人は忍術書を守り、信じきっていた

忍者の研究は、とにかく忍術書を読むことから始まる。

「大正時代くらいから忍者の研究がありますが、私たちが一番使っている良い資料の『万川集海』は大正時代にはまだ発見されていません。忍術書というのは、持っている人以外に誰にも見せてはいけないということが言われていて、大正くらいまでは、家で忍術書を持っていても教えがまだ守られていて、他の人には見せていなかったと思うんです」と山田さんは推測する。

昭和20年代に『万川集海』が世に出ると、忍者の研究が本格化していった。だがそこで書かれているものは、大衆ウケを狙った研究結果が多かった。

「私たちは史実にのっとって『ここにこう書いているからこうだ』というような書き方をしますが、昔のものはどこに根拠があってそう書いてあるかわからない。それは時代による研究のスタンスの違いでしょう。私は足場を歴史学に置いているので、たとえ昔の文献に何かが書いてあったとしても、それが事実かどうかを他の資料から確認しないといけないと思っています。でも昔の人は、書いてあるから全てそれが正しいと捉えているようです」

■「聖徳太子の頃から忍者はいた」は本当か

例えば忍者の起源。昔の文献には「聖徳太子の頃から忍者はいた」と書かれていることが多いが、そのもととなっているのは江戸時代の忍術書に書かれていた情報だ。だがそれは、由緒を遡らせるために忍術書の中で「自分たちの起源は古代の有名な聖徳太子の忍びだ」と書かれたと考えられ、史実とは異なる。

学問的立場から事実としてはっきりしているのは、南北朝時代に書かれた『太平記』という作品に忍びが出てくるため、南北朝時代から忍びが成立してきた、ということだ。だが昔の研究文献では、「江戸時代の忍術書に書いてあるから聖徳太子の時代からいた」という理由だけで受け入れられていた。

写真=iStock.com/stoickt
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こうして忍術書からわかってきた内容のうち、忍者が非常食としてよく食べた兵糧丸の作り方や火の術など実験が行えそうなものは理系の教授陣と連携して、「本当に実験するとどうですか?」と持ちかけて再現してみる。兵糧丸の場合は、兵糧丸の成分を使ったクッキーの商品開発にもつながった。

■現代人も学ぶべき「自力救済の世界で生きる術」

忍術書を読んで見えてくるのは、術そのもののノウハウだけではなく、忍者に求められる人柄や、ソフトスキルの知恵だ。「忍術書には、普段から多方面の人と知り合いになり、常日頃から連絡を取ることが重要だと書いてあります。そうすることで、いろんな情報を得て、いろんな見方や考え方を知ることができる。それは現代人にとっても重要なことではないでしょうか」と山田さん。

「忍者が活躍した日本の中世というのは、まさに自力救済の世界なんです。例えば現代では裁判所に行くと公平な形で裁判官がいますが、当時は知り合いに賄賂を贈るなど、常日頃から仲良くしておくことでいろんなことを有利に運べる、という具合でした。困った時は知り合いがいるから助けてもらえるのであって、知り合いがいるからこそ社会が回っているという世界でした。忍者の世界もまさにそういうところがあります。

現代人も、ネットの情報をはじめ情報がたくさん身の回りにありますが、本当はもっといろんなことを身の回りの人に相談しても良いのだろうし、ちょっと困ったことがあった時に一番親身になってくれるのは仲の良い人だと思うので、そのような人間関係を構築するというところを私は忍者から学びました」と山田さんは語る。

■継承の機会がなくなり、忍術書に残すように

こうして全ての忍者研究の原点となる忍術書だが、意外と見つけるのは難しい。ほとんどは伊賀・甲賀(滋賀県)に残っていて、末裔(まつえい)の人が持っているというケースが基本だ、と山田さん。江戸時代になると多くの藩が忍者を抱えることになるが、そのような忍者も、大体は伊賀や甲賀の出身。そのため、見つかるのは結局伊賀・甲賀の忍術書がほとんど。

忍術書が滅多にないのは、元々忍術書というものが存在していて、それを読んで受け継がれていくものではなかったからだ。忍術書が完成したのは17世紀中頃になってからで、それ以前は兵法書の中に少しだけ忍術が書かれている程度。実戦がある時は、親から子へ身をもって教えるといった世界だったものの、17世紀中頃になると戦いがなくなって実戦から遠ざかっていった。

能や歌舞伎で、所作は書いて覚えるのではなく、見て覚えていくものであるのと同じように、忍者の世界もそうだった――そしてそうした継承の機会がなくなっていったことで、書いて残すようになったのだろう、と山田さんは言う。

そこで有利に働いているのが、国際忍者研究センターが伊賀にあることだ。「伊賀だけあって、先祖が忍者の方が『家にこんなものがありますけれども……』と、資料を持ってきてくださったことは何度かあります」と山田さん。三重県の中でも津(つ)ではなく、忍者の聖地である伊賀に研究センターがあり、そこで研究が進められているということは絶大なPR効果を生み出し、巡りめぐって研究にも役立っている。

■忍術書は、日本各地にまだあるはず

2022年現在、山田さんが取り組んでいるのは、アメリカの議会図書館に所蔵されている忍術書の解読。戦前は日本の陸軍の参謀本部にあった資料で、GHQが接収してアメリカに持っていった資料だ。こうして世界各地に忍術書があることも驚きだが、日本各地でもまだ忍術書が見つかるはずだと山田さんは考える。

五十嵐杏南『世界のヘンな研究』(中央公論新社)

「おそらくまだ日本国内に資料がたくさんあるはずです。それに加えて、いろんな藩の資料に忍者のことが書いてあるので、どうしてこれまで忍者に着目して研究がされてこなかったのだろう、という思いはあります。ですが昔は忍者というと、いい加減で怪しいというレッテルが貼られていたために研究がされてこなかった。あまり手がつけられていないから、自分たちが開拓していろんなことをやれるのは嬉しいですね」と山田さんは話す。

「日本各地でポツポツと見つかる資料を読み込んでいくと、内容が違うんです。地域独自のやり方があって、その差異を探していくのが面白いです。例えば、長野の松代藩に伝わっていた真田(さなだ)の忍者の忍術書を調査した時は、兵糧丸に蕎麦粉を入れて作っていたことがわかったんです。ああ、信州だからそうしているんだ、というのがわかって、そうした地域の独自性もですし、忍術だけではなく組織の編成の仕方も一律ではないので、地域独自のやり方を明らかにしていけたら面白いなと思っています」

忍術はただの怪しい行いではなく、一国の存亡に関わる重大任務だった。かつてそんな責任を負った忍者の研究は始まったばかりで、やるべきことは、まだまだたくさんある。何世紀も前に生きた忍者たちは、もっと私たちに教えてくれることがあるだろう。

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五十嵐 杏南(いからし・あんな)
サイエンスライター
1991年愛知県生まれ。カナダのトロント大学で進化生態学と心理学を専攻。休学中に半年間在籍した沖縄科学技術大学院大学で執筆活動をはじめる。同大学卒業後、イギリスのインペリアル・カレッジ・ロンドンに進学しサイエンスコミュニケーションの修士号を取得。その後、京都大学の広報官を務め、2016年11月からフリーに。2019年9月、一般社団法人知識流動システム研究所フェロー就任。現在は、科学誌やオンラインメディアを中心に記事を執筆している。著書に『ヘンな科学 “イグノーベル賞”研究40講』(総合法令出版)、『生き物たちよ、なんでそうなった⁉ ふしぎな生存戦略の謎を解く』(笠間書院)、『世界のヘンな研究』(中央公論新社)がある。
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(サイエンスライター 五十嵐 杏南)