子どもの教育を学校に依存しすぎている構造を考え直さなければならない(写真:Graphs/ PIXTA)

いま、全国の小・中学生のうちおよそ2パーセント、約20万人が不登校の状態にあるといわれています。中学生に限ると7〜8人に1人が不登校または不登校傾向にあるとも推計されています。

勉強はもちろん、部活での目標達成、行事での企画運営など、社会生活を営んでいくうえで必要なことを子どもに伝える機能のほとんどを、学校に依存している社会です。しかも学歴主義が根強い。

そんな社会で、子どもが学校に行っていないとなると、親は大きな不安に襲われます。

この状況をどうしたらいいのか。どうやったら社会として、学校への依存度を下げることができるのか。それを探るべく、私は不登校を経験した子どもたちの学びの場を訪ねて回り、拙著『不登校でも学べる』にまとめました。その結果、いま、私の脳裡にはモザイク模様の学び環境が見えています。

極端にいえば、子どもたちが「この日は『森の教室』に行って、次の日は『room−K』でお勉強して、その次の日はおうちでのんびりしてからお昼過ぎに『ビーンズ』に行って、その次の日はちょっと学校に行って図工の授業だけ出てあとは『スペシャルサポートルーム』ですごして、その次の日は『フリースクール』でみんなとお勉強しようかな……」みたいに、いろんな学びのなかから、いつどこでどうやって何を学ぶのかを自分で選べる社会です。

インターネット上の学校や不登校専門塾も登場

「森の教室」とは、ある数学教師が始めた、平日昼間に森に集まって半日すごす教室です。「教室」という呼称は誤解を招くかもしれません。誰かが何かを教えてくれるわけではないからです。なんとなく集まってみんなでわいわい騒いで、なんとなく解散します。それでも、一般的な学校にはなじめない子どもたちが、自分らしさを取り戻し、お互いを受け入れ合う様子が見られます。


自然環境をそのまま教室にする「森の教室」

「room-K」とは、インターネット上の仮想空間に子どもたちが平日の昼間に集まり、そこでいわゆる「朝の会」をやったり、算数や数学の授業を受けたり、イラストクラブを楽しんだりします。参加者はインターネット上で自分のアバター(分身)を操作して、好きな相手とビデオ通話のようにおしゃべりできます。いわばインターネット上の仮想空間に現れた学校です。リアルな学校には通えなくても、ここなら毎日通える子どもたちがいます。


不登校の子どもたちが集う学習塾「ビーンズ」

「ビーンズ」とは、不登校児童・生徒への学習支援に主眼を置いた塾です。ただし、単に学校の成績を上げることが目的ではありません。ビーンズの講師たちは、最終的には自分たちがいなくても、「なんだかんだで楽しく生きていける状態」になるまで子どもたちに寄り添います。その状態になることをビーンズでは「自立」と呼びます。

「なんだかんだで毎日楽しく生きていけるだけでいいのか? 世の中にはつらく厳しいこともあることを知らないと自立なんてできないんじゃないか?」と疑問に思うひともいるでしょう。でもビーンズの答えは「いい」です。

理由は2つ。1つは、傷を癒やして前向きな姿勢を身につけていく過程で、ビーンズ(あるいは親)が用意しなくても、社会から現実を突きつけられる瞬間は必ずやってくるから。もう1つは、なんだかんだで毎日楽しく生きていける状態になりさえすれば、自らチャンスに手を伸ばすようになるから。

「スペシャルサポートルーム」は、広島県教育委員会が始めた「校内フリースクール」のようなしくみです。学校の中の空き教室を改装して利用します。保健室登校や校長室登校のような間に合わせ感はないし、かといって学校外の施設に通わなければいけない疎外感を味わうこともない。

ただし、単なる居場所ではなく、個別最適な学びの場として、子どもたちが成長できる部屋であることをコンセプトにしています。通常の教室への復帰を前提にはしていません。「生きる力」さえ育めるなら、必ずしも通常の教室を経なくていいというコンセプトです。

壁も天井もない「学校」

「フリースクール」というのは、学校教育法で認められた正式な学校ではない学校の総称です。

たとえば、星槎国際高等学校という広域通信制高校の施設を利用して星槎ジュニアスクールというフリースクールが運営されています。星槎ジュニアスクールの生徒たちは、希望すれば、高校生たちのゼミ授業に参加できます。英語が得意な小学生が、高校生の英語の授業に参加することもあるようです。いわば得意分野に特化した「飛び級」です。


通信制高校「星槎国際」の賑やかな教室

また、先述の「森の教室」から発展して、2022年9月には「森のスコーレ」というフリースクールが東京都檜原村に誕生します。なんと、壁も天井もない「学校」です。森全体が教室です。時間割も、もちろんテストもありません。知る人ぞ知るカリスマ教師たちが、子どもたち1人ひとりのその子らしい学びに寄り添います。

逆に、学校教育法で定められた正式な学校のほうをフリースクールに近づけようとするのが、文部科学省が指定する「不登校特例校」というしくみです。ちょっとした配慮を加えたり、環境設定をわずかに変えたりするだけで、不登校を経験した子どもたちが生き生きと学校に通えるようになります。だったらほかの学校もみんなそうすればいいじゃないかという気がしてきます。


不登校特例校「西濃学園」のオープンスペース

フリースクールや不登校特例校で学んだあとは、通信制高校に進学する子どもも多くいます。かつての通信制高校は、働きながら学ぶためのしくみでしたが、いまは、通学型の通信制高校がメジャーになっています。自分のペースで学校に通い、場合によっては部活などにも参加できるのが通信制高校です。当然ですが、そこから大学にも進学できます。

子どもたち1人ひとりの個性や事情に応じた学びの場が、たくさんできているのです。

ランチする場所を選ぶように学ぶ場所を選べる社会

オフィス街の会社員のみなさんのランチタイムはこんな感じではないですか。「昨日はおそばを食べたから、今日はカレーかスパゲティーにしようか」みたいな。選べること自体が楽しかったりしますよね。

一方、お役所に決められた食堂でみんなと同じ定食を食べるしかないのが旧来の学校制度です。決められた定食だけがあって、料理の種類や量を自分では選択できません。出されたものは残しちゃいけない。しかもボリューム満点の料理が休むひまなく、わんこそば状態で際限なく提供されて、食べる順番や、食べるペースや、お箸やお椀の持ち方まで指図される……。そんな食堂にはもう行きたくないと思うひとがいても当然です。

その点、フリースクールや塾などは、自分で頼んだぶんだけ好きな料理を出してくれるお店です。おそば屋さんやカレー屋さんのように、得意分野が決まっているお店もあれば、メニューを選べる定食屋さんのような場合もあります。不登校特例校や通信制高校は、小鉢を選べたり、白米を五穀米に代えたりできて、しかも最初は少なめに盛ってあって、食べられたらおかわり自由というスタイルの定食屋さんでしょうか。

メニューを選べない定食屋さんにしたって、箸の上げ下ろしや食べるペースにまで口を出さなければ、決して悪いものではないと思います。

メニューが決まっている定食屋さんから、自分でメニューをカスタマイズできる定食屋さん、そしておそば屋さんやカレー屋さん……そのときどきの状態に合わせて自分で選べるようにしたら、毎回の食事の時間が楽しくなるはずです。これが私のイメージする、モザイク模様の学びの環境です。

学校の中で学びを完結しようとするのではなくて、学びの場の1つとして学校もあるというイメージです。「学校だけに頼らない学習スタイル」が当たり前になれば、「不登校」という概念自体が消滅します。「不登校」という言葉が「学校だけに頼らない学習スタイル」に置き換えられればいいなと思います。これが不登校に対する根本的な解決策だというのが現時点での私の考えです。

実際にそのような学びのスタイルを選択する親子の話もたくさん聞きました。彼らは「不登校」なのではなくて、「ホームスクーラー」を自認していました。学習の拠点を家にして、そこから状況に応じてさまざまな学びの場を利用するのです。

ただそのとき、ホームスクーラーのみなさんやフリースクールの運営者が口々に訴えていたのは、費用の負担が大きな問題になるということです。いままで学校で抱え込んでいた機能を分散するのだから、学びの権利を保障するという目的であれば、フリースクールだろうが私塾だろうがオンライン教材だろうが、どこで学ぼうと、義務教育段階の学びについては、無償とするのが筋だと私は思います。

不登校を解消すれば教員の多忙問題も解決する!?

以前、絵本作家の五味太郎さんにインタビューしたとき、彼はもっと大胆なことを言っていました。スーパーでも工場でも会社でも、子どもたちが好きなときに好きなところに社会科見学できるようにして、子どもたちがやってきたらそこの大人たちは必ずちゃんと対応しなければいけないことにして、社会全体を学びの場にしてしまえばいいと言うのです。それを彼は「学習システム」と呼んでいました。

これ、本気で目指せばいいんじゃないですか? 五味さんの「学習システム」もモザイク模様の学び環境の一部として利用するのです。

そもそも「学校」ができるまでの人間の「学び」って、そういうものだったはずです。それなのに、近代に「学校」が発明されてからというもの、子どもたちのまわりに公共財としてあったはずの「学び」を、学校がブラックホールのように吸い込んでいきました。


このままだと、そのうち自転車の乗り方も、スーパーでの買い物の仕方も「学校」で教えて点数がつけられるようになるのではないかと本気で危惧します。そんなところで劣等感を覚えて悩んでしまう子どもがいたらバカバカしいと誰もが思うでしょう。

データの力があれば、科学の力があれば、哲学の力があれば、あらゆる「学び」を制御できると勘違いした近代以降の人間の傲慢さが、「学校」というモンスターを育てました。子どもたちを一堂に集めて“正しい教育”をすればみんなが同じように「発達」するに違いない……。そういう“正しさ”への幻想が「学校」を肥大化させました。それを解体して、再び社会や生活の中に戻す時期にきているのではないかということです。

そうすれば学校の負担はだいぶ軽くなります。いま大きな社会問題になっている教員の多忙の問題も自然に解決していくのではないでしょうか。

(おおたとしまさ : 育児・教育ジャーナリスト)