昭和の政治家・田中角栄元首相は、今でも根強い人気がある。なぜ彼は人の心を惹きつけるのか。セブン‐イレブン限定書籍『田中角栄処世訓 人と向き合う極意』(プレジデント社)の一部を特別公開する。今回は「冠婚葬祭」について――。(第1回)

※本稿は、小林吉弥『田中角栄処世訓 人と向き合う極意』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

写真=時事通信フォト
6カ月ぶりの郷土入りで、贈られた花束を手に出迎えの人たちに応える田中角栄前首相(新潟・長岡市の国鉄長岡駅前) - 写真=時事通信フォト

■金に困った議員に“生きたカネ”を配る

人は
カネの世話に
なることが
何よりつらい。
そこが分かって
一人前。

選挙の季節になると、資金が足らず、各派閥の領袖のもとには支援を訴えてくる議員が多くなる。田中と他の派閥の領袖が違うのは、その対応の仕方である。多くの派閥のトップは、部下に渡したことを口外してしまうのである。「誰それがやって来たので、いくら出してやったよ」と。

要は、親分風を吹かせたいのだ。が、こういう話はすぐに広まり、当の部下議員の評判はガタ落ちになってしまう。「そんなにもカネに困っているのでは、ろくに政治活動に身が入らないのではないか」との噂も立ち、次の選挙も危うくなるのである。

しかし、田中は資金援助をしても、決して口外することがなかった点で白眉(はくび)であった。田中は若い頃から汗水たらして働いてきたので、カネの苦労を人一倍よく知っていた。

こんな話がある。子どもの頃、家が貧しかったため、母親に代わって親戚にカネを借りに行ったことがあった。そのとき、他人にカネを借りることのつらさ、胸の痛みを知ったということだった。

そのために、ピンチに陥っている議員にカネを届ける秘書たちに、次の言葉を常々申し渡していたのだった。

■「姿勢を低くして渡せ」と秘書に指示したワケ

「おまえは絶対に『相手にこれをやるんだ』という態度を見せてはならん。『もらっていただく』という気持ちで、姿勢を低くして渡せ。人は、カネの世話になることが何よりつらい。相手の気持ちを汲(く)んでやれ。そこが分かってこそ一人前だ」と。

自分のカネでもないのに、秘書のなかには高飛車に出る者もいる。それは“生きたカネ”とはならないと、厳しく戒(いまし)めていたということだった。

こうした田中の抜群の気配りに、支援を受けた議員はみな感謝し、「角さんからのカネは心の負担がない」と永田町での声は少なくなかった。

カネというものは、「両刃の剣」だ。上手に使えば自分の成長の“栄養源”になるが、ヘタな使い方をすると人品が卑しくなり、逆に評判を落とすことにもつながる。

また、一方で自分のカネは極力出したくないという人間もいる。しかし「ケチに説得力なし」という言葉があるように、それなりの人物がいくら立派なことを言っても、誰も聞く耳を持たないということになる。

カネにケチな人間は、伸びないと知りたい。倹約と吝嗇(りんしょく)(ケチ)は違うのである。筆者は、多くの政治家を見てきて、そう実感している。一般社会でも、同じことが言えそうである。

■2倍なら平凡、10倍なら……

生きたカネは、
やがて“芽”を出す。
敵ですら、味方になる。

田中角栄における「10倍の哲学」とは、なかなか有効性のあるものだという話である。読者諸賢すでにご案内のように、見事にカネを切って見せるのが田中の大きな持ち味であった。カネが切れるとは、生きたカネを使うということである。

カネは、魔物である。上手に使えば相手の感謝を得るが、ケチも含めて下手な使い方をすれば、相手からの反感を買うことのほうが強くなる。

1972年6月、内閣総理大臣に就任した頃の田中角栄(写真=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

そうしたなか、田中はしばしば「10倍の哲学」を駆使し、相手を取り込んでいたのである。

例えば、香典にしろ、見舞い金にしろ、議員への支援金にせよ、誰もがこの程度の金額だろうとしているモノを出しても、これは“平凡”である。2倍上積みして出せば、相手は「えっ……」ということで、感謝の度合いやその人への関心もやや高まることになる。

しかし、ドーンと目の前に予想だにしなかった10倍のカネを積まれたらどうなるか。「おお、これは……」で相手は目を剥き、人間は驚くと改めて対象物を凝視するという性癖を露わにすることになる。

すなわち、ここまでオレに関心を持っていてくれたのかというショックである。そして、これはいつまでも心に残り離れないということになるのである。

■「国会の止め男」に届けた異例の香典

こんな例がある。

社会党に、大出俊という代議士がいた。田中が若き郵政大臣の頃、労組「全逓」の幹部として田中とわたり合った経緯があった。田中は立場は違うが、頭の回転も速いこの大出を買っていた。大出は、やがて国会議員となり、政府・自民党の政権運営、政策に待ったをかけ、「国会の止め男」の異名もあった。

その大出の、親族の一人が亡くなった。常に与野党問わず情報網を敷いていた田中のもとに、当然のようにそうした情報が入った。田中政権時代、田中派を担当していた政治部記者のこんな話が残っている。

「大出の親族の死を知った田中は、ある田中派の中堅代議士に50万円ほど入った香典袋を渡し、『ワシの代わりに、これを届けてくれ』と言った。ところが、そうしたさなか、ちょっと時間ができた田中は、『君は行かんでよろしい。ワシが直接行く』と言って、結局、葬儀にまで出席した。政敵の親族になんとも“異例”の50万円という香典、ましてや本人がそれを持って葬儀にまで現れた。大出は、のちに言っていたそうだ。『角さんには参ったな』と」

かく、田中角栄「10倍の哲学」ということだが、その後、大出が国会で田中批判の大声をあげることはなかった。

一方、田中のこうした相手に対する“金銭的奮発”も、決して自ら見返りを求めなかったことで特筆に値する。「来る者は拒まず、去る者は追わず」のうえで、議員への支援で渡したカネのことも一切他言せずであった。

「カネは受け取るほうがどれだけ心に負担となっているか、他言されたらどれだけ恥ずかしいか、その辺が分からんでカネが切れるかだ」

まさに、前項の「そこが分かって一人前」ということである。生きたカネは、やがて“芽”を出すことを知っておきたい。敵も、味方になるということである。

■招かれていないのに……葬式に駆け付けるワケ

冠婚葬祭、
とくに重視したいのは葬祭だ。
結婚式などは
皆が喜んでいるのに対し、
葬式は誰もが落ち込んでいる。
寄り添ってやるのは
当然のことではないか。

田中は、情にもろい男であった。そのために「“情と利”の角さん」などとも言われていた。結婚式などめでたい席は、みんなが喜び祝福をしているので、どうしても出席しなければならないということはない。むしろ、人々が悲しんでいる葬式にできるだけ顔を出し、遺族に慰めの言葉でもかけるべきだとする姿勢を通したのである。

実際、田中は人の不幸には居ても立ってもいられず、葬式に駆け付け、遺族と一緒に涙し、激励するという光景をあちこちで見せている。

象徴的なエピソードがある。田中が幹事長時代の1965(昭和40)年、かつての政敵であった社会党の元委員長・河上丈太郎の訃報を聞いた田中は、社会党、河上家のどちらからも招かれていないのに葬儀に駆け付けたのである。年末の雨の降る寒い日である。

田中は2時間ほど立ち尽くし、野辺の送りをやった。足元は雨が跳ね返っていた。

河上とは、自民党と社会党の対立時代が始まった「55年体制」のなかで、激しくやり合った仲であった。そんな田中が葬儀にわざわざやって来た。自民党から参列した幹部は田中一人であった。葬儀に参列した社会党議員らから、「田中というのは凄い男だ」という声が漏れ聞こえてきたものだった。

また、予定をすべてキャンセルして葬儀に駆け付けたり、時間がなくヘリコプターを飛ばしたりして駆け付けたということもあったのである。

そうした田中の姿勢は、のちにいろいろな政治の局面で生きることになる。社会党とは、国会で日韓条約や、学生運動に対する大学法案などで何度もわたり合ったが、初めは突っ張っていた社会党も、やがて「田中が言うなら仕方がない」となり、落としどころを見つけて妥協する場面も少なくなかったのだった。「55年体制」下、田中がスムーズな国会運営に果たした役割は大きかったのである。

■宴会に顔を出し、膝を折って語らう

気取っている人間は
嫌われる。
膝を折って
自ら酒を注ぎ、
話をしてこそ、
人から喜ばれる。

田中角栄は首相になる前の大蔵大臣、自民党幹事長、通産大臣時代を通じて、じつにマメに宴席に顔を出していた。政界の実力者、加えて庶民派として国民の人気も抜群だっただけに、中央政界の中堅・若手議員、財界、地方議員、中小の事業家など、「先生のお話を聞きたい」と“宴席出席要請”が途切れることがなかったのだ。

田中はよほど多忙でない限り、週2日か3日を、この宴席出席にあてた。例えば、5つあるその日の宴席出席要請を3つほどに絞り、午後6時、7時、8時と設定、3時間で3つの宴席を駆け足で回るのである。場所は、赤坂、新橋、築地、神楽坂、向島といった具合にまちまちだから、車で移動する時間を考えると、一宴席にいられる時間は40分ほどということになる。

宴席の主役は田中だから、屏風の前に座り、設けた側の幹事あたりから「まあ先生、一杯」となるのがふつうだが、田中は座敷に入ると例によって「やあ、やあ」の第一声、屏風の前には座ることなく、集まった者たち一人一人のところに出向き、膝を折っては自ら酒を注ぎ、また返杯を受けては、話をするといった具合だった。

■気取っている人間に、人は寄って来ない

こうした田中の幹事長時代の宴席に出席したことのある当時の自民党中堅議員は言っていた。

小林吉弥『田中角栄処世訓 人と向き合う極意』(プレジデント社)

「私を支えてくれる選挙区の県会、市会議員10人ほどをお連れしたことがある。事前に『どの先生をお呼びしようか』と彼らに相談すると、一致した答えが『田中角栄先生』だったのです。先生は自分ら一人一人の前に来、盃(さかずき)を手に『おお、そうか。それは、こういうことだ』などと、偉ぶるところはまったくなしで、笑いのまじった率直な話をしてくれていた。料理には、一切手を付けずにです。国民に人気のある庶民派政治家とはこういうものか、先生が退席されたあとの出席者全員が『今日は本当によかった』と、先生にお目にかかったことを心の底から喜んでくれた。私も面目がたったものでした」

こうして、田中は週に2日か3日、3つばかりの宴席に出席、仮に一宴席の出席者が10人としても、1日に30人を“虜(とりこ)”にしてしまうことになる。これが週に3日なら90人、月に360人ほどが“田中ファン”になってしまう計算だ。年間なら、なんと4000人になる。

田中の広大無比と言われた人脈は、こうした形でもつくられた。そっくり返っている人間、気取っている人間に、人は寄って来ないということでもある。

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小林 吉弥(こばやし・きちや)
政治評論家
1941年、東京都に生まれる。早稲田大学第一商学部卒業。的確な政局・選挙情勢分析、歴代実力政治家を叩き合いにしたリーダーシップ論には定評がある。執筆、講演、テレビ出演などで活動する。著書には、『田中角栄 心をつかむ3分間スピーチ』(ビジネス社)、『田中角栄の経営術教科書』(主婦の友社)、『アホな総理、スゴい総理』(講談社+α文庫)、『宰相と怪妻・猛妻・女傑の戦後史』(だいわ文庫)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『新 田中角栄名語録』(プレジデント社)などがある。
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(政治評論家 小林 吉弥)