写真・文=橋口麻紀

世界遺産のピアッツァ グランデ(大広場)にイタリア軍の車両が待機


[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]

第3波のイタリア

日増しに春の陽ざしを感じるようになってきたイタリア北部の小都市、モデナです。

 朝はまだまだ寒くダウンジャケットが手放せませんが、きりっと冷たい空気と太陽の暖かさが心地よい4月が始まりました。この時期は、”チポッラ(たまねぎ)でパッセジャータ(お散歩)しましょう“という合言葉が飛び交います。日中の寒暖差がまだ激しいので、”たまねぎ”のように何枚も重ね着をして調節できるように、というイタリアらしい表現には思わず笑みがこぼれます。

 昨年3月、世界が注目したロックダウンから1年が過ぎました。先月のニュースではゴーストタウンと化した昨年の様子が連日放送されていました。イタリアは欧州諸国で最初に都市閉鎖を開始した国ですから。そして、1年後には状況は好転しているであろうと、誰しもが信じて疑わなかった。イタリアだけでなく、全世界がそう信じていたのですが……。

 イタリアは4月10日現在も、20州中10の州がゾーナ・ロッサ(規制が一番厳しいレッド・ゾーン)となっています。ウィルス新規感染者は1万7551人。うち約90%を変異ウィルスが占めるという、予想を超えて変異ウィルスが猛威を振るっている状況だから、ゾーナ・ロッソの処置はいたしかたないのでしょう。

 新型コロナウイルス危機対策への支出をめぐり、第3波渦中の2月に政権が変わるなど、混沌としています。新しく首相に就任した欧州中央銀行(ECB)前総裁のマリオ・ドラギ氏に注目が集まるものの、盛り上がっているのは政府内だけ。国民においては大きな期待をよせるわけでもなく、平静をよそおい日々を粛々とこなしているといった感じです。

 4月4日は、年中行事でとてもたいせつなパスクア(復活祭=イースター)でした。しかし、政府が先んじて4月3日から5日のパスクア連休は、全土をゾーナ・ロッサにすると発表。平時であればファミッリア(家族)が一堂に集うのですが。なかなか明るさがみえてこない、イタリアの今です。

こんな状況下ですが、新緑の息吹は気持ちが安らぎます

感染者数の意外な理由

 ここエミリア=ロマーニャ州のモデナも、ゾーナ・ロッサ(レッド・ゾーン)が続いています。(4月10日現在)証明される仕事上の理由、必要性のある状況、または健康上の理由に動機付けられる場合を除き、時間に関係なく外出禁止。そして、食料品や生活必需品を扱っている店舗以外はすべてクローズです。2番目に感染者が多い州ということもあって、市街地やピアッツア(広場)は閑散としています。しかも軍や警察車両とすれ違う機会が多い。そのことで、状況を改めて思い知らされる毎日です。振り返れば、2月初旬のゾーナ・ジャッラ(規制が3番目のイエロー・ゾーンは、バールやリストランテなどは18時までの営業。22時から5時まで外出禁止)は、3週間という短期間で瞬く間に過ぎてしまいました。今となってはまるで夢のようです。

旧市街地には警察車両が目立ちます

 イタリアは政府が法律のもと、ウィルス対策に伴う規制を発令しており、従わなければ罰金が科せられます。警察車両などが街をパトロールしているのは、もちろん抑止力も兼ねているのです。しかしながら感染者数はなかなか減少しません。

 連日夕方には、政府の保険省がメディアを通じて国民に状況を説明し、厳しい状況であることを訴えています。

 日本人の私からすると、ここまで政府から厳しくコントロールされている国がなぜ収束に向かわないのか、理解しがたいのです。無縁だったマスクも着用するようになり、ハグをすることもなくなりました。じっさい私たちも、日々、家族や友人にも会わず生活をしているのです。

市街地は警察官のパトロールが強化されている

 ミオ・マリート(私の夫)にこの思いを伝えたところ、背景にはイタリアと日本の教育が起因しているのではないかというのです。

 

教育がもたらす国民力の差

 「ゾーナ・ロッサは法律で定められた厳しい規制だけれど、小さなほころびのようなものを個々が見つけ、それを自己解釈し”自分ルール“を作り行動をしている。近所への外出は許されているけれど、なんらかの理由をつけて遠出をしているし」

 「バールの店頭での飲食は禁じられている。が、それぞれが考える”店頭の定義“がちがうから人集りができる。見かねたバール側は、規制のラインを張り巡らせることになる。すべての行動が自己判断。足並みを揃えるのはむずかしい。こういった国民性だから感染者数はなかなか減少しないのだろう」

 いっぽう日本では、イタリアのようなロックダウンを政府が国民に強いることができないにもかかわらず、国民はパニックになることもなく粛々と“自分たちルール”を守り、国民のちからで感染を抑えているように見える。それは、決まり事を自分たちが守ることで、集団行動を乱さないということを幼少期から教育されていることが影響している。これこそ、日本ならではの“国民力”ではないでしょうか。

 イタリアでは、子どもの頃から個人主義が基本で、集団行動を重んじることはなかったようです。そこで、小学校時の学校生活について聞いてみたのです。とてもわかりやすかったのが運動会について──イタリアには、日本の運動会のような集団で行動をする学校行事はないのです。

 運動会といえば、マスゲームや騎馬戦などの団体競技の事前練習に時間をついやした記憶があります。みなが同じ行動をしなければいけません。集団行動の基本となるアイデンティティをインプットするには最適な学校行事でした。イタリア人と日本人の幼少期における教育の違いは、それが長じて国民性の違いになるわけですね。

 「集団行動からは社会的安全性がうまれる。そして、個人主義からは自由な発想からくる独自性がうまれている。うまくミックスするのが理想だけれど、太陽と月は一緒に存在することができない」

 

有事だからこそ気づいたコト

 日本人のこの集団行動の基本ともいえる“決まり事を守る”ことが、この新型ウィルス感染拡大を他国に比べると、抑えていることに奏功しているのではないか。と、長く日本に生活をしていた経験がある、北イタリア人のミオ・マリートの考察です。その視点から、あらためて集団主義的な日本の教育と、イタリアの個人主義の教育について考える機会となりました。

ピアッツァ ローマ(ローマ広場)前の宮殿はイタリア軍のオフィスに

 コロナ禍というはじめて経験する有事になって、考えるコトやそして知る、気づくコトがまだまだある。日本の教育のもとで身につけた考え方や価値観がベースでいまの自分があるのですが、個人主義の教育からなるイタリアという国から、日本を俯瞰することがひいては、自分自身の気づきになり目が開かされました。

 そして、自分にある“気づきスイッチ”をオンにする好機になったことは、この有事からのギフトであるようにも思えた春の始まりです。みなさんにとっても、有事というピンチがチャンスにつながることを祈ります。

筆者:橋口 麻紀