現代だからこその症状でもある(写真:プラナ/PIXTA)

子どもを出産した女性の10人に1人が発症するといわれる「産後うつ」。乳児虐待や自殺にもつながりかねない深刻な病気だ。欧米では1980年代後半から関心が高まっている問題だが、日本ではどうなのか――。

「ようやく支援に目が向き始めたところ、といえるでしょう。一方で、今の日本の社会では、いまだ多くの人たちが“赤ちゃんを産んだ女性は幸せに満ちている”といった幻想を持っています」

こう話すのは、20年以上前からわが国の産後うつ対策に取り組んでいる産婦人科医の宗田聡さん(東京慈恵会医科大学非常勤講師、広尾レディース院長)だ。

「実際に子育てをしている母親でさえそう思っているのです。しかし、その幻想が子育て中の母親を追い詰めて、苦しめていることも事実です」

産後の女性を苦しめる産後うつとはいったいどんな病気だろうか。今から5年前、長男の出産のあとに産後うつを患った、会社員の亀田絵里さん(仮名、41歳)が語る。

「まさか自分がかかるとは思ってもいなかった」

「仕事柄、産後うつという言葉を聞いたことはありましたが、妊娠中に診てもらっていた産婦人科医からはそんな話はまったく出ませんでした。だから、まさか自分がかかるとは思ってもいなかったですね」

出産は、主治医から「お手本のようだった」と言われるほど順調。その一方で、メンタルの不調に関しては、その予兆は出産直後からあったという。

授乳がうまくいかない(おっぱいが出ない)、おむつ替えに失敗する、体がしんどい、眠い……。生まれたばかりのわが子を目の前にして、不安が募るばかり。

その不安は、退院後にますます強まっていった。

「病院では助産師さんなどがいろいろと教えてくれました。ですが、自宅に戻ってからは自分ですべてやらなければいけない。わが子の世話の1つひとつに対して、“これは合っているの?”“ちゃんと育ってくれてるの?”と自問自答ばかりしました」(亀田さん)

振り返ってみると、妊娠中に読みまくった妊娠・出産関連本には、授乳の仕方や沐浴の方法、おむつの替え方、産後の女性の体の回復などについては書かれていたが、この時期に母親が抱えやすい心の問題とその対策について、解説しているものはなかった。

初めての育児に不安を持たない人はいない。だが、その不安を解消していくための情報が、圧倒的に不足していた。

「例えば、『子どもは泣くもの』っていいますよね。頭ではわかっているんだけれど、気持ちが追いつかないんです。泣かれるたびに“もっと抱っこしろ”“手を抜くな、サボるな”って自分が責められている感じがして、“もうやめて!”って叫んでいました」

夫のサポートがなかったわけではない。むしろ妻の体調を気遣ってくれていた。だが、亀田さん自身が「これ以上、彼の仕事に支障が出てはいけない、迷惑はかけられない」と、つらい胸の内を打ち明けないようにしていた。

ギリギリだった彼女を救った自助グループ

亀田さんの心と体をむしばむ育児ストレス。やがて不安による抑うつと慢性的な睡眠不足、体力低下に、片頭痛や腰痛などの体の症状も出始める。目の焦点が合わなくなるといった、これまで経験したことのない症状にも見舞われた。固形物を受け付けず流動食をとるように。トイレに行く体力も奪われ、はっていったという。

もう頑張れない。気が狂いそう。わが子に手をかけてしまうかもしれない――。そんなギリギリの心理状態だった亀田さんを救ったのは、共通の問題や悩みを抱えた人が集まる自助グループだった。産後うつの背景に、自身が持つメンタルの問題があるのではないかと気づいて、自ら連絡をとった。何度か通ううちに気持ちが軽くなり、うつ状態が改善していったという。

亀田さんは当時を振り返り、こう訴える。

「育児は本当に大変。周りの人たちは子育て中の母親を応援してほしい。『大変だね、頑張っているね』って声をかけるだけでも、母親の気持ちは軽くなります」

産後の女性、あるいはそのパートナーにとって産後うつは決して他人事ではない。

厚生労働省の研究班によると、2015年〜2016年の間に産後1年以内に亡くなった妊産婦の死因で最も多かったのは自殺で、がんや心疾患による死亡数よりも多かった。

事実、産後の女性は妊娠をしていない女性よりもうつ病を発症しやすく、産後うつの罹患(りかん)率は10〜15%にものぼる。だが、宗田さんは「それは氷山の一角にすぎない」と述べる。それは、産後うつの一歩手前の状態を抱えていながら、適切なケアにつながっていない母親が多いからだ。

そこに来て、このコロナ禍だ。

すでに女性の自殺が急増していることが危惧されているが、産後の母親に関しても精神的な負担が増してきている。日本周産期メンタルヘルス学会の調べでも、「本来のサポートを受けられない」「感染が不安で外出受診ができない」「不安で憂鬱になった」といった相談が増えているという。宗田さんはこれに危機感を抱く。

コロナ禍で子育てママの環境はかなり深刻に

「わが子を感染させてはいけないと外出を控えている母親がいます。子どもと2人きりでいる時間がますます増え、孤立が進む。しかも、そういう母親に対するサポートも感染予防のため一部、ストップしていると聞いています。コロナ禍で子育て中の母親の環境は、かなり深刻になっていると思われます」

ここで改めて産後うつとはどんな病気なのか、宗田さんに解説してもった。

「産後うつはうつ病の1つで、出産後1カ月ぐらいたってから表れます。ただ、これは出産直後からの育児ストレスや不安がうつ病という病的なかたちになって表れるまでだいたい1カ月ぐらいかかる、ということです」

主な症状は、気分がずっと沈み込む、時々泣いてしまうなど。こうしたうつ病の症状に加え、子どもに対する心配や不安、焦燥感、母親としての自責感や自己評価の低下など、母子関係にまつわる症状が表れるのが特徴的だ。

症状は精神的なものに限らない。頭痛、吐き気、肩凝り、便秘、下痢、しびれといった体の症状として表れることも。実際、亀田さんは頭痛や腰痛などにも悩まされた。

「体の症状は育児疲れによるものだから仕方ないと決めつけないで。なぜなら、出産によるダメージや育児の疲れが体の症状となって表れているのか、それともうつ病による体の変調なのか、正直なところ区別ができないからです」と宗田さん。

<産後うつの症状>
・気分がずっと沈み込む
・時々泣いてしまう
・日常生活の活動に興味がもてない
・「自分が悪い」と感じる
・毎日のように疲労感が続き、気力が湧かない
・自分を価値のない人間(母親失格)だと思う
・家事や育児に集中できない
・赤ちゃんのことが過剰に心配でたまらない
・赤ちゃんのことに無関心になる
・物事(家事)にうまく対処できない
『これからはじめる周産期メンタルヘルス』(南山堂)宗田聡著より一部改変

マタニティーブルーとはまったく違う

ちなみに、産後うつと混同しやすいのがマタニティーブルー。まったく違うものだという。

「マタニティーブルーは出産直後から10日以内ぐらいに表れる、一過性の体調変化です。出産によるホルモンバランスの乱れが原因で、不眠、食欲不振、疲労、頭痛、涙もろくなるといった症状が一時的に出るものの、自然に治まります。対して産後うつは、出産した女性のパートナーが発症した例もあるように、大きな環境変化が原因です」

産後うつは心理療法を中心とした治療で早期に対応できれば、比較的治りやすい病気といえる。だからといって軽視できるものではない。病気によって育児放棄や虐待が起こるおそれがあり、母親だけでなく、赤ちゃんの健康や生命にも危険が及びかねないからだ。

産後うつについても、なりやすい性格が知られている。いわゆる、まじめ、几帳面といった性格なのだが、この性格傾向も近年、変わってきているようだ。宗田さんが気にしているのは、「外来で妊婦さんや子育て中の母親と話をすると、“みんなはどうしているんですか?”と聞かれることがとても多い」ということ。

「成長のスピードは赤ちゃんによって違うし、育児に正解はありません。だから、周りを気にすることはないと、そう何度も説明するのですが、結局、みんなと同じだと安心し、違うと不安になるからと譲らない。堂々巡りです。30年間、産婦人科医をしていますが、こういう傾向が出ていたのは最近のように思います」

これは、インターネットなどによる情報の氾濫と、ワンオペ育児の影響が大きいとみている。

「昔は、地域で子どもを育てていました。多くの人たちが子育てに関わっていたため、妊娠し母親となった女性は、そういう環境の中で子育ての多様性を学んでいった。それが難しい今は、母親がすべてを自分で解決しなければならない。そうなった場合、みんなと一緒というのが判断材料、安心材料になるのだと思います」

育児につまずいたときや行き詰まったときが危ない

問題は、育児につまずいたときや行き詰まったときだ。

育児の不安やストレスを吐き出せる相手がいたり、一時的にでも1人の時間を作れる環境があったりすれば、不安やストレスは軽減される。だが、それが難しいケースもある。厚生労働省の調査でも、10年前と比べて「子育ての悩みを相談できる人がいる」「子どもを預けられる人がいる」妊産婦は半分程度に減っている。

こうした子育ての孤立と負担感の増加を受け、国も支援に乗り出した。その1つが、2014年の「妊娠・出産包括支援モデル事業」として始まった産後ケア事業だ。これは専門家が母親の心と体のケアをしたり、相談に乗ったり、育児サポートなどを請け負ったりすることで、出産直後の母親を支え、子育て環境を整えるというもの。

事業を行うのは市区町村(自治体)。2017年度は392、2018年度は667の自治体で事業がスタート。2019年に「母子保健法の一部を改正する法律」が公布、産後ケア事業が法制化されたことで、市町村は子育て支援に努める義務が出てきた。

「これはつまり、子育て家族を支える仕組みができつつあるということ。気になる方は、ご自身の住む地域の市役所や保健センターなどに問い合わせてみましょう。サポートを受けたからといって、母親失格ではありません。むしろしっかりケアしてもらうことで望ましい母子関係が育まれ、それが次の母子関係にも引き継がれます。少しでもつらいと思ったら、専門家に相談することをお勧めします」(宗田さん)