西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(46)

【エース】西武・工藤公康 後編(前編の記事はこちら>>)

【1993年シリーズは、ほとんど記憶にない】

――左足肉離れで本調子ではなかった1992(平成4)年の日本シリーズでしたが、ライオンズは4勝3敗で日本一に輝きました。そして、翌1993年は腰痛をおしての出場となりました。この年は初戦の先発マウンドに上がっています。

工藤 なぜか、この年はあまり記憶がないんですよね。日本シリーズ初戦だからといって、特別な意識は持たずにマウンドに上がった気がします。

――このときは1回1/3を投げて4失点で降板しました。6つのフォアボールを与えたことで、森祇晶監督は「ペナントレースではあり得ないことが起こった。これが日本シリーズだ」と発言しています。

工藤(ジャック・)ハウエルに3ランを打たれたんですよね。(映像を見ながら)この頃は太っているし、投げ方も悪い。これは「緊張」ではなく、単なる「体調」の問題ですね。この試合も、ほとんど記憶にないです。今、あらためて映像を見ると、ハウエルに対しては配球にも問題がありますね。勝負にいく前に、一球スライダーを投げていれば結果も変わったのかもしれません。


映像を見ながら当時を振り返る、現・ソフトバンク監督の工藤氏photo by Hasegawa Shoichi

――1993年の日本シリーズでは、初戦の先発に続いて、第5戦にも先発して、4回2/3を無失点に抑えました。そして、最終戦では先発・渡辺久信投手の後を受けて二番手でリリーフ登板。全部で3試合を投げています。

工藤 ごめんなさい、まったく覚えていないです(笑)。こんなことを言うと偉そうだけれど、この頃のうちは常に優勝したり、日本シリーズに出場していたりしたので、慣れてきていたというのもあったのかもしれないですね。すみません。

【敗れはしても、「西武野球」への信頼は揺らがなかった】

――結局、1992年、1993年と2年続けてスワローズとの日本シリーズとなりました。当時のライオンズの方々にお話を伺うと、「前年に比べると、1993年のヤクルトは急激に強くなった」という発言が多く聞かれました。この点についてはどんな印象をお持ちですか?

工藤 当時は選手だったので、詳しく分析をしていたわけではないですけど、確かに「今年のヤクルトは成長しているな。いいチームになっているな」という実感はありました。後から考えれば、「うちは(オレステス・)デストラーデがいなくなった」とか、いろいろ理由はあるんですけど、ヤクルトの強さは確かに感じていたと思います。

――これもみなさんに伺っている質問ですが、この2年間で全14試合が行なわれ、両チームともに7勝7敗、ともに一度ずつ日本一に輝いています。両者の決着は着いたとみていいのでしょうか?

工藤 難しい質問ですね。でも、「自分たちのチームは強いんだ」という思いがなければ、勝つことはできないと思うんです。「うちが負けたから、ヤクルトが強い」とか、「うちが勝ったから西武が強い」というものではなくて、「自分たちの野球に間違いはない」という思いを持ち続けることが大切だと思うんです。だから、「自分たちは強いんだ」という思いで常に野球を続けていたのは間違いないですね。

――たとえ1993年はスワローズの前に敗れたとしても、自分たちが取り組んできた野球への信頼感は揺らぐことはなかったわけですね。

工藤 そうです。自分たちの野球、それまで取り組んできた野球を信じるという思いはまったく変わらなかったです。

【シリーズを通じて、あらためて「野村野球」のすごさを実感】
 
―― 一方、2年間の激闘を演じたスワローズに対しては、戦ってみて、どんな印象を持つことになりましたか?

工藤 野球において、大事なことは「チームがひとつになって、ひとつのことをいかに徹底できるか」だと思うんです。そういう意味では、まだ1992年の段階ではヤクルトさんもひとつにまとまっていなかったのかもしれない。でも、翌1993年は野村監督のやりたいことが、チームに浸透して、それを選手たちもきちんと理解して、しっかりと形にすることができていたと思います。それが形として現れたのが1993年だったんだと思います。


1993年にシーズンMVPを獲得し、日本シリーズに臨んだ工藤 Sankei Visual

――同様のことを森祇晶監督も、伊原春樹コーチも発言されていました。スワローズの選手たちも、「前年の悔しさがあったから、チームがひとつにまとまった」という発言をしていました。ライオンズにとっても、スワローズにとっても、1992年から1993年にかけては、スワローズの成長を実感する2年間だったんですね。

工藤 そうでしょうね。当時は、そこまで冷静に考えられていたわけじゃないけど、今こうして自分が監督になって振り返ってみたら、そういうことだったんだと思います。

――前回のお話にもありましたが、1992年シリーズ前には、いわば「野村監督の幻影」に警戒していたというエピソードがありましたが、実際に戦ってみて、「野村野球」「ID野球」に対する印象の変化は生まれましたか?

工藤 あらためて、野村さんのすごさを実感しましたね。自分が監督になって痛感しているのは、「自分の考えや思いを、しっかり選手に伝えるのはこんなにも大変なことなのか」ということなんです。一度伝えたからって、そう簡単に選手たちに理解してもらえるものではない。何度も何度も繰り返して、選手たちが実感してくれたときにようやく、伝えたいことが伝わるんです。それをきちんと選手たちに伝えた野村さんは「やっぱりすごい方だな」と思いますね。

――1990年にスワローズの監督に就任した際に、野村さんは「1年目で種をまき、2年目に水をやり、3年目で花を咲かせる」と発言していました。そして、その3年目にセ・リーグ優勝、4年目に日本一に輝きました。やはり、監督の考えを選手たちがきちんと理解するには、時間がかかるものなのですね。

工藤 野村さんが監督に就任したときに、何時間もミーティングをやることが話題となりましたよね。当時は「キャンプ中に何時間もミーティングされたら、絶対に寝ちゃうよ」と思っていたんですけど、それでも地道にミーティングを続けていたことがすごいですよ。野球というのは、頭で理解したことを体で表現するもの。そして、できなかったことをきちんと埋めていく作業を繰り返していく。そうして、また学んで、頭で理解して、体で表現する。その繰り返しで成長できると思うんですけど、野村さんは見事にそれを実践されましたよね。

――2年間にわたった日本シリーズでの戦いを通じて、あらためて野村さんの実績、功績が理解できるようになったんですね。

工藤 野村さんは野球のこと、人間のこと、チーム作りのことをきちんと理解されていたし、チームが成長するためには何をすればいいのかをずっと考えてきた方なんだと思います。それが初めて体現されたのが1993年の日本シリーズだったんでしょうね。

(川崎憲次郎の証言につづく)