武田信玄は1521(大永元)年、甲斐(山梨県)の守護だった武田信虎の長男として生まれています。元服のとき、室町幕府第12代将軍足利義晴から「晴」の字を与えられて「晴信」と名乗り、のち、出家して信玄と号しました。

 1541(天文10)年6月、21歳になった信玄が父・信虎を国外に追放したことは「信玄のクーデター」としてよく知られています。これは、信虎の苛酷な政治で甲斐全体が疲弊したことと、家督が弟・信繁に譲られそうになったので事前にそれを阻止するためだったともいわれています。いずれにせよ、信玄は21歳の若さで甲斐の戦国大名となりました。

治水や外交で手腕を発揮

 信玄といえば、「信玄堤(づつみ)」で知られています。甲斐には笛吹(ふえふき)川や釜無(かまなし)川といった河川が流れ、それらが合流して富士川となって駿河湾に流れこむわけですが、源流から盆地部分までの距離が短いこともあって、少しまとまった雨が降るとすぐ洪水を引き起こしていました。

 信玄は主要河川に堤防を築き、洪水による被害を減らしています。その方法は「信玄流川除(かわよけ)法」「甲州流川除法」などといわれ、江戸時代の治水方法としても継承されています。

 外交面では、相模の北条氏康、駿河の今川義元との間に「甲相駿三国同盟」を結んでいます。これは近国同盟の一つですが、2国間ではなく3国間で結ばれ、非常に珍しいパターンです。信玄はこの同盟によって、背後を心配することなく北に出ていくことができました。これにより、越後の上杉謙信と前後5回の「川中島の戦い」が繰り広げられることになるのです。

メンツ捨てられず上洛遅れ、病に倒れる

 ただ、結果論ということにはなりますが、信玄の場合、すぐ隣にほぼ同じくらいの力を持ったライバルがいたことで損をしていることも事実です。甲相駿三国同盟を破綻させ、今川義元亡き後の氏真と手を切った信玄が謙信と手を結んでいれば、もっと早く上洛行動を起こし、織田信長に対し有利な戦いが展開できたはずでした。メンツを捨て謙信と手を結んでいれば、歴史は大きく変わっていたのではないかと思われます。

 そしてもう一つ、信玄の失敗は、1572(元亀3)年10月、体調が思わしくないにもかかわらず、無理を押して出陣してしまったことです。徳川家康を攻めた三方原(みかたがはら)の戦いですが、戦いには勝ったものの、翌1573(天正元)年4月12日、信濃の駒場(こまんば)で没しています。

 死因について、以前は労咳(ろうがい)、すなわち肺結核とされてきましたが、医学史の研究者は、当時の史料に「膈(かく)の病」とあることから、胃がんだったのではないかとしています。病気そのものは、信玄にそれ以前から巣くっていたと思われますが、甲斐にはいくつもの温泉があり、信玄自身はそれらの温泉に入り、温泉療法によって発病を遅らせていたのではないかと考えられます。

 ところが、甲斐から駿河、駿河から遠江へと長期の出陣を強行したために、温泉に入ることもできず、病状を悪化させてしまったのではないでしょうか。健康管理が武将にとって、ひいては大事をなそうとする人間にとっていかに大切か、教えてくれているように思います。