2011年、日本はFIFAの国際大会で初めて優勝を遂げた。なでしこジャパンがドイツワールドカップ決勝でアメリカをPK戦の末くだしたのだ。指揮官は佐々木則夫。2007年12月、監督に就任して4年で世界の頂点に立った。

高校時代は帝京高校のキャプテン。明治大学時代は、後に日本代表の10番を背負う木村和司と同期。だが大学を卒業するときはまだ日本にプロサッカーは誕生しておらず、佐々木は社会人サッカーの道に進む。

そこではサッカー部存続の危機もあった。チーム作りに奔走する時期もあった。そして家族の病気で心を痛める日々も続いた。そんな大きな「転機」をいくつも乗り越えながら先に進んだ佐々木だからこそ、幸運が微笑んだのかもしれない。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:浦正弘】


「1シーズンだけサッカーをやらせてくれないか」



私は現役を33歳までやってたんですよ。大学を卒業して日本電信電話公社に入社して、チームは電電公社関東からNTT関東になって。ずっと社員としてプレーしてたんですけど、チームを途中で1回休部したんです。妻が大病を患いまして。大きな転機と言えばそれですね。

1984年に子どもが生まれたんですけど、その妊娠中も妻は4カ月間ずっと入院しているような状態だったんです。「前置胎盤」と言って、子どもの下に胎盤があって、あまり動くと出血してしまうので安静にしていなければいけなくて。

帝王切開でやっと生んだんですが、体力的に落ちてたんでしょうね。1985年に風邪を引いたときに、状態がおかしいと思ったら、脳と脊髄を包んでいる膜が炎症を起こす「脳膜炎」を起こしてしまって。子どもはまだ生まれて半年ぐらいで、私は26歳か、27歳でした。

しかも、そのときちょうど私は自分の出した転勤願いが通って、自宅のある大宮から電車で1時間ぐらいかかる三郷に転勤になってたんです。浦和料金センターでは営業の最前線ではなかったので、営業の根本をしっかりと学びたいと願いを出していました。

会社に診断書を出して状況を説明したら「しっかり家族の面倒をみなさい」と言ってもらい、三郷へ転勤はしてたんですけども、休職扱いだったんだと思います。NTTは組合がしっかりしてたので、組合から給料をもらってた時期もありました。

妻の昏睡状態は2カ月ぐらい続いて、そのあとは意識が戻ってきたんですけど、まだどうなるかわからないという状況でしたね。入院は半年ぐらい続いて、それから自宅に帰って通院しながら、次第によくはなったんですけど、でも後遺症はあったんです。

妻は自宅で養生しながら生活できるような状況になって、私も仕事をちゃんとルーティンとしてやれるようになったのですが、職場が遠いし、妻も子どものこともあったので、サッカー部を休部しました。結局、2シーズンぐらいは止めていましたね。

サッカーを続けると月曜から金曜まで仕事をして、土日も試合や遠征で休めないんです。子どもは小さいでしょ、彼女は面倒を見られないし、いつも両方の両親に面倒を見させるわけにもいかないので活動を停止してたんです。

そうするうちに妻がだんだんよくなってきて、季節の変わり目に容態は変わるけども入院するほどではなく、という感じになりました。すると妻が言うんですよ。「私のためにあなたがサッカーを辞めたっていうのはイヤなの」って。

それで1987年に「じゃあ1シーズンだけやらせてくれないか」と言ったんです。妻も「1年だけならサッカーやっていいよ」と承諾してくれたんですよ。

ところがサッカー部に戻ると、あれよあれよという間に地域リーグを勝ち上がって、日本フットボールリーグ(JFL)に昇格することになって。それでそのままずっとサッカーの世界に入っていっちゃった。それがまず一つの転機でしたね。

子どもが産まれるときも本当に大変だったんですけど、みんなで精いっぱいやったら元気な子どもが――最初は元気じゃなかったんですけど徐々に元気になってきた、ということもありました。そんな矢先に妻が倒れた。でも願い続けたら、思いがいい方向に変わってくれてたという経験でしたね。何があっても全力で取り組んでいると、最後は結果に繋がってくるということはあるんですね。

転機に直面したとき先のことは考えない



三郷支店に勤めているときの仕事は「料金担当」で、料金を支払わないお客様対応だったんですよ。間違った請求をしてしまった料金事故とか、そういう苦情を聞くこともやってました。

でもどちらかというと、料金をお支払いいただけないお客様のところに、夜、お客様が仕事から帰ってくるのを見計らって行って「お支払いいただけないですか?」って言う仕事の部署だったんですよ。夜行くので、仕事はお昼からでした。

あるとき、伺った先のお客さまがテレビでJリーグ見てたんです。「あ、サッカーやってますね。私もサッカーやってるんですよ」って。そうしたら家に上げていただきましてね。それが横浜マリノスの試合で、明治大学で同期だった木村和司が出てたんですよ。まさか「これ、私の同期です」とは言わなかったですけどね。私の心には複雑な思いがあったのでしょうね。

私は現役を辞めたあと、1997年にはNTT関東の監督になったんです。ただ、監督になったんですけど、廃部という方向が決まってて。

Jリーグがスタートしてましたから、NTT関東もプロ化しようと準備してたんですけど、会社のいろんな事情があってやめたんですね。それで、私が監督になったときは、最後の選手の人員整理だとか、そういう仕事をしなきゃいけないってことになってたんです。

もちろん最終的には私の監督という立場もなくなるんで、どの部署にいくか、みたいな話もありましたよ。そのときは、もうサッカーから離れて電話事業や別の仕事に専念するサラリーマンになろうか、あるいは教職を取って先生の道を行こうかとか、そんな可能性がありましたね。

そんなことをしているときに中村維夫さんっていう、NTT本社の労働部長をしていらっしゃった方が埼玉支店長として赴任なさったんです。中村さんが我々の試合をご覧になったあと、「お前たち、廃部なんだろう?」とお聞きになったんで、「はい、でも精いっぱいがんばります」と答えたんですよ。

そうしたら「廃部じゃなくてプロ化すればチームは残れるんじゃないか?」と言ってくださって。「オレは電話事業の仕事をいっぱいやってたけど、プロチームは作ったことがないな」って。

それで、なんと大宮アルディージャができることになったんです。中村さんは「チームが残っても、お前たちが残れるかどうかわからないけど」って笑ってましたね。私たちにとって、すごく大きな夢をかなえてくれた方、それが中村さんでした。

それで変わってきたんですね。プロ化できるって、それはもう願ったり叶ったりですよ。今度はプロ化の準備室なんかができて、忙しくなって。ただプロ化にするので、今度はその意味で人員整理をしなきゃいけないわけですよ。でも廃部よりはポジティブな仕事で、それはすごくうれしかったですね。

自分の人生は、中村さんのような人に会うかどうかですごく違ったと思います。中村さんのような、核になる方がいらっしゃるかどうかは大きいと思いますね。もし出会いが無ければ、まずアルディージャは全く無いですし、私も電話事業に一生懸命励んで、60歳になりましたからもう退職ですね、みたいな人生だったと思います。

1999年で監督を辞めたんですが、そのときも中村さんが「お前がこれから監督をするかどうかに関係なく、お前はそういうサッカーの勉強はまずしておいたほうがいい」と言ってくださって、社員でありながら、取得まで長い時間がかかるS級コーチライセンスを取りに行かせてくださったんです。

「今後、スポーツを広めていくにあたって、身内でもそういうライセンスを持った人間がいたほうがいいだろう」って。中村さんは後のNTTドコモの社長です。人を掌握する力がある人でしたね。

だから私が転機に直面したときは、あまり先のことは考えなくて、現状を真摯に受け止めて前向きにやっていくということの積み重ねだったと思いますよね。将来が見えなかったんですけど、そこに前向きに取り組んできた。

サッカーにおいても、与えられた自分の役割を前向きにやってきたことの積み重ねが、いろんないい方向やいろんなことにつながったと思いますね。今、大宮のスタジアムに向かう観客のみなさんや子どもたちの姿を見ながら、昔を思い出すとね、本当ね、「よかったな」という気持ちがあります。自分たちの積み重ねが、少しでも継続されているわけですからね。

今、いろんな分岐点、たとえば奥さんが病気したとか、辛い仕事をやっているとか、そういう分岐点を目の前にしている人に何か言うとしたら、「それは運命だから受け入れたほうがいい」ということですね。

運命の流れに逆らおうとするとイライラしますからね。流れを受け入れながら、努力を積み重ねていくと、また何か違うところが開けてきたり、いい方向になったり、というところにつながると思うんですよね。

なでしこジャパンの監督を退いて、そのあと男子サッカーの世界でもう一回監督をやってみたいというのは、ありましたね。ただ、ずっと男子のサッカーを見ながら、「これを女子に当てはめたらどうだろうか」という検証しかしていなかったので、男子の監督をやるとしたら、さまざまな視点を数年かけて広げたときだろうと思ってたんです。

でもそう思ってた矢先、妻から「もう辞めてね」って言われました(笑)。私が監督をやっているとき、家族も試合を見に来てるんですけど、私よりもハラハラしながら見ているそうです。

私自身は、「負けるのも勝つのも仕方がない」って思ってるんですけど。20本シュートを打っても3本しかシュートを打ってない相手に負けることもあるというのがサッカーですから。だったら覚悟してなきゃやっていられない。

でも、スタンドで見ている身内からすると、ドキドキしているんですよ。私が五輪やワールドカップの日本代表を見ながらドキドキしているときの3倍ぐらいなんでしょうね。家族はワールドカップで優勝したとき、腰を抜かしてましたよ。

だからもう嫌なんでしょうね。ただもし、1987年に妻が「1年だけならサッカーやっていいよ」って背中を押してくれなきゃ、私は普通のサラリーマンで、もう退職ですよ。(了)


佐々木則夫(ささき・のりお)

1958年5月24日、山形県生まれ。大学卒業後は日本電信電話公社(現NTT)に就職するとサッカー部で活動を続けた。33歳で引退し、指導者の道へ。2006年になでしこジャパンのコーチに就任すると、2007年に監督となり、2016年まで指揮を続けた。