日本がワールドカップ初出場を決めた1997年11月の12年前、日本は韓国とワールドカップ出場をかけて戦い、そして敗れた。当時、日本の攻撃を指揮していたのは木村和司。大学時代から日本代表としてプレーし、正確なFK、意表をついたパス、ここぞというときのフィニッシュで10番を背負い、日本サッカーの中心人物だった。

その後代表から遠ざかり、クラブでは突然引退する。監督としてのチーム復帰したが、失意のうちにクラブを去ることにもなった。そして2015年には脳梗塞で倒れ、誰よりも繊細だった黄金の右足は思うように動かなくなった——。

日本サッカー界にとっても、自身にとっても大きな「転機」を経験してきた木村に、当時の裏話を聞いた。また、ゆっくりとではあるが歩けるようになった今、どんな夢を持っているのかについても語ってもらった。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:浦正弘】


「あそこが本当の日本サッカーの転換期やと思うよ」



転機と言えば、日韓戦が絡んでるけどな。そっからだもん。1986年メキシコワールドカップのアジア最終予選、ソウルでやった第2戦(初戦のホームゲームを1-2で負けた日本は、逆転をかけた第2戦でも0-1の敗戦。ワールドカップ初出場が夢と消えた)。

結局、日本のサッカーの転換期はそこだもん。もう(先にプロ化していた韓国同様)プロにならないと勝てないというのがあったからな。久ちゃん(キャプテンの加藤久)と話したりしてたもん。「絶対勝てんな、これじゃ」って。

2戦とも勝てなかったという。だけども、ワールドカップ、見えてなかったよ。どうせ韓国に負けるとかさ、そういう感じもあったからな。でもな、あれ勝ってたらワールドカップで(ディエゴ・)マラドーナとやからな(韓国はワールドカップでマラドーナ率いるアルゼンチンと対戦。1-3で敗れた)。

あの試合で韓国の選手がマラドーナ削りに行ったやろ。「こいつバカか」と思ったもん。お前、何しよるんやって。でも、日本が出てたら、あんなに削りに行ってもかわされとるよ。

あんとき、日本にもプロがないとダメやという話になり、そっから1986年かな。国産プロ第1号とかになってさ。変わったよね。あそこが本当の日本サッカーの転換期やと思うよ。ターニングポイントやと思うよね。

だけど当時はプロ化への反対もあって「ノン・アマチュア」(アマチュアではないがサッカー以外の報酬が受け取れない)とかわけの分からん制度もあってな。面倒くさいことやってたんよな。

最初のプロは奥寺さんとワシやったからな。ワシだってやれると思ってたよ。プロになったからって、待遇は全然変わらなかったけどね。ただ「プロ」って公に見られるというのがあったし、アディダスと契約したりしたし。それはよかったと思うね。契約内容もよかったもん。あのころにしてはね。

逆にプレー自体がそっから、ホントによくなかったもんね。ええ格好しようと思ったから。プロはやっぱり、いいプレーしないといけない、とかさ。そういうのがよくなかったんじゃないの。

あとは今だから言えるけど、たばこ止めたからよ。プロだからって止めて、で、調子悪うなって。「もうええわ」って思ってたばこ吸い出した。そうしたら、もう年間MVPよ。この話、あんまり言えんよな。

周りからな、見られてるというのがさ、そういうのが多かったな。いっぱい注目されるから、いいプレーとかさ、たばこを止めていい子になろうとかさ。そういうのあったよね。で、それが自分にとって逆によくなかった。自分らしくなかったやろ。たぶん。ヤンチャやったからな。プレーもな。

プロだからこれしなきゃ、ちゅう発想があったんじゃない? ダメだよな、そういうの。ま、そういうのを勉強したけどね。

そのあとみんながプロになって、それはよかったと思うよ。オクちゃん(奥寺康彦)だけがプロだったらさ、絶対みんなプロになってなかったでしょ。ワシがいたからよかったんよ。みんなプロになって。国内にいてもプロになれるってことになって、よかったと思うよ。ただ重圧は……あったと思うよ。

あそこからやもんな。プロに向かってJリーグができるまでいったもんな。だからもっと早くに「プロを作ろう」って言い出す人がおったらな。まぁ言い出しても、みんな付いていかん人やったらダメやったろうしな。

今の自分がプロになったころの自分にアドバイスができるとしたら、「ちゃんとディフェンスしんさい」って言うね。チームのために働きんさいって言うだろうな。

ワシが監督でワシを……どうかなぁ、使うじゃろうか。結局、納得させるというかさ、「お前こういうことやってくれ」ってさ、それをうまく言えるかどうかやな。結局そうだった。

だから木村和司みたいなヤツは、うまくのせてさ。今もマネージャーがいてさ、手のひらの上で転がされてて、踊らされててるんやけど、それができるかどうかやろうなぁ。こういうヤツは。うまく使うかどうかやね。

「森孝慈さんと話したんよ。横浜の関内のほうで」



まぁ今考えたらね、引退は早かったかもしれんけど、そんときは、あれじゃない? もうエエわって思ったんじゃない? 周りもうるさいって言うかさ、なんだかんだ言われるのもイヤやったし。

聞こえてくるんだよ、辞めるころになればな。それに耐えられるかどうかやな。だいたい辞めるときっていろいろ言われんのよ。面と向かって言うヤツなんかおらんけどさ。カズー(三浦知良)なんかもそうやんか。

アイツなんかはそういう言われることに強いんよ。聞こえてるはずなんやけど、よくやってるなって思うもん。それはエライよな。だからワシは「アイツは死ぬまでやったほうがエエ」って言ったけどな。死ぬまでやれよと。引退するって言わなきゃいいのよ。

ワシはそういう感じじゃなかったからな。諦め早いもん。誰か止めてくれる人がいたらな。「もっとやれ」とかさ。そういう人はいなかったよな。

そのとき移籍の話はいろいろあったけどな。辞める前だな。今考えれば、行けばよかったと思うよ。すごい契約内容だったもん。「え、いいの?」っていうさ。今は当たり前みたいになってるけどさ。すごかったよ。いや、でもヴェルディじゃない(笑)。行ったら言い合いになってたよ。ラモス(瑠偉)と。どっちが10番つけるんやって。間違いない。

辞めるときの監督は清水秀彦さんよ。清水さんは、清水さんが現役のときから長く一緒にやってたから、それが余計にな。昔のワシのイメージがあるからさ。やっぱ落ちてきたってすごい思うんじゃない? 昔からよく知ってる人はそういうのもあったんじゃない?

もうちょっとやっとけばよかったな。まだあの、辞めるときもさ、一応来年のこう、契約更改というかさ、やってたんだけどな。でも年俸ちょっと下げられるんがいややったんやろうな。なんで下げられなあかんのかいって。だったら辞めたるわいって。

森(孝慈。故人。元日本代表監督として木村を10番に据えた)さんと話したんよ。横浜の関内のほうで、飲みながらさ。それで森さんから「お前は辞めい」って言われて、ワシも「辞めたるわい」って。

その次の日の朝からミーティングやったんよ。そのときに社長に「もう辞めます」って言ったんよ。……そうそう。……そうよ。……酔った勢いで言ったんよ。だからなぁ……もう1回契約しとったらよかったなぁと思うよ。あのころで年俸はナンボやったかなぁ。5000万円ぐらいはいってたんじゃないかな。短気だったなぁ……。

「そらやってみたい気はあるけどの。もう1回な」



監督になったのは、1回はどんなもんか、やってみたかったからなぁ。それが経験できたっていうのはあるし、ある意味勉強なったっていうかな。ま、監督って大変だなぁって思ったし。

監督になって病気になったようなもんだけどな。ストレスでな、糖尿病になって。本当にな、甘いもんばっかり。甘いコーヒーとかさ、自分でもおかしいぐらいさ、スポーツドリンクとか飲み出したもんな。そらおかしくなるで。

(2016年に脳梗塞で倒れた)ラモスも監督やってストレスが溜まっとったんやない? やっぱりストレスだもん、よくないのは。

今度監督になったらうまくやっていける自信はあるけどな。次はスタッフも全部自分で選んでな。フロントやスタッフが大事よ。ダメだよね、ちゃんと自分が連れてこないとな。

人間性も見たよ。汚いところも見た。逆にもう監督やりとうないかな。ああいうの見るのイヤだからな。監督にはいい人が向かないというのはホンマよ。監督はある程度ワルじゃないとできんよ。ワシは人がよすぎるかもな。雰囲気は悪かったんだけどな。格好だけや。

もう監督をやってくれとかさ、そんな話はないよな。もうやらんだろうって思われてるよね。病気(2015年の脳梗塞)したからというのもあるんやけどね。1回やれば何が大事かわかるからな。もうわかったから。監督ってどうやればエエかの。

そらやってみたい気はあるけどの。もう1回な。やっぱり優勝したいというかな。監督になって。……そういうのあるね。

1回さ、順位とかそういうのなしで、好きなようにやらしてほしいよな。そら勝たないけんってあるんだけど、ワシはどっちか言うたら、お客さんをナンボ呼べるかいうのが重要やと、そう思うんよ。順位はさ、そらドンケ(最下位)はダメやろうけどさ、そういうのやらせてほしかったよね。好きなようにやってたら解任されてもエエんやろうけど……結局前回はそれもできんかったというかな。

「人に感謝するっていうかさ。そういうのがやっぱり分かってきた」



ワシも昔、海外のチームから誘われたけど、あのころ、今と違ってな。そういう情報とかが入ってくる機会とかがなかったもん。やっぱり怖かったもん。海外に行くのが。そういうのもイヤやったな。それに結婚してて、子どももおったしな。

病気は転機やったな。今は脳梗塞になったときよりかは、なんとかエエけど。生きとるし。これもエエ勉強になったかもしれんし。ギプスはしなくなったけど、足首は痛いんだよね。昔の傷っていうかさ、それがあるから、やっぱりリハビリも遅れちゃうんだよね。遅れるし、やっぱり麻痺も残ってるし、その痛みとかもあるし。

病気で変わったのは、気が長くなったことかな。人に感謝するっていうかさ。そういうのがやっぱり分かってきたというかさ。ホントやっぱり、家族に対してもそうだし、感謝するっていうかさ。生かしてもらってるというかさ。本当の感謝する気持ちって、よく分かったよ……。

あと、当たり前なんやろうけど、やっぱり人間は1人だけでは生きていけんからな。そういうのがホント、身に染みて分かったというかな。

今、「大人のサッカー教室」やったりしてるけど、ワシはサッカーがうまくなるって、やっぱり指導者じゃなくてさ、周りの友だちとかと一緒にうまくなっっていくという考えを持ってるから。だからあえて指導ということじゃなくて、遊ばすというかさ、そういうことをやってるんよ。

指導者も大事やけど、うまくなっていくというのは、周りの友だちの影響が大きいからな。そこをすごい、また感じるようになったな。強くなっていくチームというのは、うまいヤツが集まるというかさ、それでまたうまくなっていくんだよな。そういう周りの友だち、必要なんだなっていうの、すごい感じるんだよ。

周りがうまけりゃうまくなるんだよな。だから選手は海外とか行きたくなるんだよな。だってうまいから。うまいやつらと一緒にやりたい。それでうまくなりたいのやな。

今はやっぱな、思うように体が動かんというのがあって……前のワシやったらイライラして、逆に病気になってるやろうなと思うんよ。もうおかげさまで、イライラせんようになった。

酒? もうバリバリ飲んどるよ。飲まんとやれんじゃろうが(笑)。(了)


木村和司(きむら・かずし)

1958年7月19日、広島県生まれ。明治大学在学中から日本代表として活躍。大学卒業後は日産自動車、横浜マリノスで活躍し、1986年には初めての国産プロサッカー選手1号となる。1994年、引退。2010年、2011年には横浜F・マリノスで指揮を執った。