今はテレビのコメンテーターとして活躍する中西哲生が、現役プロサッカープレーヤーだった1998年、日本で初めての試合がおこなわれた。負けると次年度からスタートするJ1リーグに参加できなくなるという試合だった。

中西の所属する川崎フロンターレは前半に先制したがすぐに追いつかれた。それでも後半追加点を挙げアディショナルタイムに突入する。そんなとき、相手のクロスが中西めがけて飛んできた。競り合う相手はいない。このボールを処理すれば、すぐにタイムアップになるはずだ——。

20年以上経っても、中西哲生はその試合のことが忘れられない。ワンプレーが人生の「転機」になった。そしてあの試合で自分の生き方を変えたと言う。つらさに目を背けることなく、自分を見つめ直したことが今の生き様にもつながっていた。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:浦正弘】


フロンターレも僕も試合終了間際の失点が多かった



自分の一番の転機は……やっぱり1998年11月19日のJ1参入決定戦・1回戦でしたね。翌年からのJ1リーグ参入を巡って、僕の所属していた川崎フロンターレとアビスパ福岡とで争った博多の森での試合が、人生一番の転機だったと思います。

このゲームで僕は3バックの右をやってました。試合の流れを簡単に言うと、フロンターレは後半アディショナルタイムまで2-1で勝っていたんです。そこで相手のクロスボールを僕が胸でバックパスしたんですが、GKの浦上壮史さんと交錯して、こぼれ球を山下芳輝選手に押し込まれて同点に追いつかれました。まぁ……追いつかれて、結局延長戦のVゴール(延長戦で先にゴールをしたほうが勝つというルール)で敗れて。しかもこのゲームは、一発勝負の入れ替え戦だったんです。

セオリーだったら僕が足でクリアする場面です。ただ、そのとき僕は結構落ち着いていました。そうじゃないと胸でバックパスしたりしないじゃないですか。「これはバックパスしたらGKがキャッチできるし、そっちのほうが時間を使える」というのが計算としてあったんです。

その直前のプレーで、僕はヘディングで1回クリアしてるんですよ。そのボールを相手に拾われたので、次はクリアじゃなくて胸でバックパスしようと思って。それくらい冷静だったんです。

結果、それがGKに伝わってなかったという僕の選択ミスでした。そのときも思ったんですけど、それをガミ(浦上)さんのせいにするんじゃなくて、GKがクリアを望んでいたんだったら、GKの望んでいたことをしなければいけなかったし、プレーの前にGKと目を合わせてバックパスするよと匂わせていれば、ガミさんはそんな慌てて出てくることもなかったでしょう。

フロンターレは強かったんですよ。いいメンバーが揃ってました。ヴァルディネイとツゥットという2トップもすごかったし。そして当時フロンターレが戦っていたJリーグの一つ下の日本フットボールリーグで、最終的にソニー仙台に負け2位になりましたが、入れ替え戦に挑むことができました(JFLで2位以内に入ったJリーグ準会員クラブが参加)。

このころはフロンターレも僕も、試合終了間際に失点することがすごく多くて、勝負弱かった。それが土壇場の一番大事なところで出てしまったというか……。

僕この時、自分がサッカー選手として、いろんな意味で一生懸命やってたつもりなんですけど、常に負けたときの言い訳を探すタイプだったというのに気付かされたんです。負けたときに言い訳が出来るように、いろんな縁起を担いでたんですよ。

試合の前の日には何を食べる、試合の前にどっちの足からピッチに入る、ユニフォームをどっちの手から着るとか。それだけたくさん縁起を担ぐと、必ず何か忘れることがあるじゃないですか。それで、負けたときには「そういえば、あれをやるのを忘れてた」と、言い訳をどこかに探してた自分がいたんです。

けれど、入れ替え戦のときは「一発勝負で絶対負けちゃいけない試合」ということで、すべての縁起を完璧に担いで臨んで。それで試合はリードしながら僕のミスから負けにつながったわけです。

そのときに初めて、自分が今までいかに無駄なことをしてきてたのかということに気づいたんです。それで、自分が変わらなければダメだと思って、そこから一切縁起を担がなくなりました。

それから何があっても言い訳をするんじゃなくて「すべて自分の責任なんだから自分で何とかするしかない」と思えるようになりました。「言い訳を探すんじゃなくて、うまくいくための方法を探す人生を生きよう」と思ったのがこの時なんです。

たとえば今、僕は目標が「日本のワールドカップ優勝を自分の目で見ること」なんです。そう言うと、普通の人って「日本がワールドカップに優勝するって無理だ」って反応するんですよ。それって、みんな優勝できない言い訳を探してるんじゃないかと思います。

僕はそうじゃなくて「ワールドカップに優勝するための方法を探す人生を生きよう」と。だからみんなが何を言っても気にならないんです。「できない」と言われたら「それはわかるよ。でも僕はそうじゃなくて、生きてるうちに日本のワールドカップ優勝を自分の目で見たいんで、そのための方法を探す人生を生きようと思ってる」って。

そう思えるようになったきっかけが、この参入戦なんです。そこまで縁起を担いでいろんなことを何かのせいにして、言い訳探して生きてた自分に気づけた瞬間でした。

ただ、僕はあの試合を決して「よかった」とは言えないんです。あの試合で選手生命が終わった選手も何人かいたんで、とてもじゃないけど「いい試合だった」とは言えないし、僕の責任はとても大きかった。

それに報いるためには翌年必ず優勝することだと思ってました。実際J2で優勝して昇格したんですけど、そのときにはもうフロンターレも僕もアディショナルタイムに失点して負けることもなかったし、逆にアディショナルタイムにこっちが1人少ない10人になってるにもかかわらず、CKからカウンターで決勝点を決めた試合もあったし。

そうやって試合終盤の勝負弱さを乗り越えられたというか、今のフロンターレのようにアディショナルタイムにゴールを決められるチームになったということだと思うんです。そう変えるきっかけになったということで、このゲームが僕の人生にとっては一番重要だと思います。

もしあの試合に勝って最終的に昇格してたら、その後はJリーグでなかなか優勝しないチームになってたかもしれないです。もしかしたら、J2をさまよってたかもしれない。けれど、何度も何度も悔しい思いを積み重ねたからこそJリーグを連覇するようなチームになったと思います。全てはつながってると思うんです。

実際僕のやってたことが、伊藤宏樹(現・スカウト)に受け継がれ、そのあとは中村憲剛選手に受け継がれて。僕は富士通川崎から川崎フロンターレに変わったときの初年度から所属したのですが、その1年目から14番をつけてやってました。今は中村憲剛が14番をつけてプレーしてくれてるというのもつながってると思うんです。

一緒に入れ替え戦を戦った鬼木達が今の監督なのもつながってると思うし、GKコーチの菊池新吉さんやスカウトの向島建さんも現役で一緒にやってましたから。あのときのメンバーは今でも一緒に戦ってた仲間感ってあるんです。いつもフロンターレに対して愛情があります。

ニーズに「フラット」であることが次につながる



僕は日本代表でもなかったから、現役を辞めたらもう誰も名前を知らないわけじゃないですか。そんな人間がテレビに出てどうやって仕事をしていくかというのもフロンターレの状況と似ていると思います。

川崎といえばヴェルディだった時代に、スポーツが根付かないと言われた地域からいつもスタジアムが満員になるところまで来た。それと同じだと思ってるんです。中西哲生という名前を誰も知らなかったと思うし、肩書きが「中西哲生」ということを磨き続けて、ちゃんと進んで来られた。

その理由はやっぱり、フロンターレとともにやってきたことにある。僕はフロンターレにすごく感謝してるし、今もメンタリティというのは、脈々と生き続けていると思います。

今年で現役を辞めてから19年が経ちました。現役時代が9年間でしたから、その倍以上の年数がもう過ぎたんです。スポーツジャーナリストになってからかなりの時間が過ぎました。こんなにずっと途切れずに仕事があり続けているというのは、本当にありがたいですね。

自分がやっている仕事に対しては常に120パーセント……200パーセント、相手がほしいと思ってることが100パーセントならば、常に200パーセントやるという気持ちでいるんですけど、それぐらいでやらないと、もう次回はない。

例えば初対面で仕事をしてインタビューしてくれた人が、「中西、面白いな。また一緒に仕事してみたいな」「また違う媒体でもインタビューしてみたい」と思われないと、もう次はないんですよ。

僕たちは現役のとき、レギュラーポジションを勝ち取っていれば、次の試合って数日後にやってくるんです。現役を終えて思っているのは、自分の仕事が自分で決められないというか、オファーをいただいて初めて仕事が発生するということで。1回仕事を受けて、その人がまた中西哲生と仕事をしたいと思っていただかない限りは、次はないということを思い知りました。

ただ幸いに、この仕事を始めたときにそういうことには気づいてました。それは現役時代、首都圏にいるメリットを最大限に生かしていろいろな職業の人たちに会うようにしてて、そこからいろんなヒントをもらってたんですけど、そのころによく言われてたんですよ。

「今はサッカー選手の中西哲生だからみんな会ってくれるだろうし、あなたに興味を持ってくれるかもしれないけど、辞めたら誰も興味持ってくれないよ」って。

元サッカー選手だからって仕事があるわけじゃないし、もっと極端なことを言うと、スポーツがそんなに好きじゃない人もいるし、サッカーを好きじゃない人のほうが多いかもしれない。

そうなったときに、「元サッカー選手・中西哲生」という肩書きが役に立たないというのはわかってたんで、自分が「有限会社・中西哲生」というような気持ちでやらないと、仕事が増えていくわけがない。1回もらった仕事を200パーセントでやって、「この人と仕事をしたら楽しい」とか「中西哲生とまた会ってみたい」と相手に思ってもらえれば次はあると思ってたんです。

常に相手のニーズに対して、200パーセントの熱量でやっていくこと、「フラット」であることが、また次の仕事につながるかもしれない。「フラット」とは、たとえばファンの方がサインをほしいけど勇気を出せなくて声をかけられないときに、自分から行ってサインをするとか、電車に乗ってて、自分が別の席に移動すればカップルが並んで座れるようになる状況で、相手の望んでいることと自分がフラットな状態だったら「どうぞ」ってできるだろうということです。

生活の中でも仕事の中でもいつも意識してるんですけど、たまに自分がフラットになってないときがあるので、そうならないようにって常に思ってます。どんな仕事でも、フラットにニーズに応えられるように、相手が望んでいることと自分が望んでいることをしっかり出しながら、毎日生きていこうと。

それをずっと積み重ねてるだけなんです。それがレギュラー番組だとしても、昨日よりなるべく今日のほうがよく、また今日よりも明日のほうがよくという意欲を、毎回持ってやっていくようにということは、すごく思ってました。それは現役を辞めたときから今まで変わってないんです。当たり前ですけどね。

気持ちを持ち続けられたのは、サッカーをやっていたからでしょうか。日々積み重ねるということがちゃんとできないと結果も出ないし、見返りを求めて努力してもそれが結果に結びつかないこともよく知ってますからね。

努力した人が全員成功するんであれば全てうまくいくと思うんですけど、そういうワケではないと思います。でも、それがわかっていたとしても努力しなければ、積み重ねていけません。

特に僕は名古屋グランパスエイトに在籍してたときは試合に出てなくて、ベンチにいた時間がすごく長かったんです。フロンターレのときはピッチには立ってたんですけど、喜びを得た瞬間よりも悔しいときのほうがものすごく多かった。

サッカー人生を振り返っても悔しい時間がほとんど、9割5分以上で、楽しい時間は一瞬というか、そんなに多い時間じゃなかったから。ただ、自分はそれでよかったと思うんです。そういう悔しい気持ちをずっと持ち続けながら仕事をして、そのときの経験が一番今の自分に役立っていますから。

現役時代はたくさん悔しい思いをしたり、たくさん挫折したりしていると考えてて、「なんでオレばっかりこんな目に遭うんだろう」と思ってたんですけど、冷静に考えると全部自分のせいだったなって今はよく思います。やっぱり気づくのが遅かったですね。


中西哲生(なかにし・てつお)

1969年9月8日、愛知県生まれ。1992年、名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)に加入すると、1997年に日本フットボールリーグ(JFL)所属の川崎フロンターレに移籍しJリーグ入りを目ざした。1999年、ついにJ1リーグ入りを果たし2000年、引退した。