2018年のノーベル平和賞を受賞したナディア・ムラド・バセ・タハ氏は、過激派組織「イスラーム国」(IS)に拘束され、“性奴隷”として扱われた。著書『THE LAST GIRL イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』(東洋館出版社)では、その壮絶な体験を明かしている。なぜ彼女は拘束されたのか。同書の翻訳協力者である中東調査会の高岡豊氏が、組織的な性暴力の背景を解説する――。
2018年10月24日、アラブ首長国連邦のシャルジャで行われた国際会議で、スピーチを行ったナディア・ムラドさん(写真=AFP/時事通信フォト)

■ノーベル平和賞受賞者の壮絶な体験

本書は、2018年のノーベル平和賞受賞者のナディア・ムラドさんの壮絶な体験の書であるとともに、彼女が属する「ヤズィディ」と呼ばれる人々の共同体が被った恐るべき被害の記録でもある。

著者は、イラク北部に居住するヤズィディと呼ばれる人々の一員である。ヤズィディの信仰やその実践については、本書で著者の視点から述べられているため詳述しないが、彼らの信仰の核心部にあると思われる孔雀天使は、ムスリムからは悪魔と同一視されることもあるため、ヤズィディの人々は「悪魔崇拝者」として差別や迫害を受けがちだった。

これに対し、ヤズィディの人々も異教徒の改宗や異教徒との通婚を認めずに、共同体を営んできた。著者が生まれ育った時代においても、ヤズィディの共同体はアラブ人、イラク国民、クルド人など、さまざまな属性を押し付けようとする圧力の中にあった。それでも、彼らはイラクのへき地で、一応は周囲のアラブやクルド、ムスリムなどの民族・宗教共同体と共に生活し続けてきた。

■イラク戦争後に変化し始めた環境

そんな彼らを取り巻く環境は、2003年のイラク戦争後に変化し始める。フセイン政権打倒後、ヤズィディの人々の下にもアメリカ兵たちや携帯電話、衛星放送などが姿を現した。ヤズィディの人々が外部の世界と接する機会が拡大したのである。

その一方で、イラクの治安悪化に伴い、ヤズィディの共同体を取り巻くムスリムの間に、イスラーム過激派の思考・行動様式が着実に浸透していった。2014年に彼らを襲い、恐るべき被害をもたらした「イスラーム国」は、何の脈絡もなく突然発生したわけではなかった。

■若い女性は「性奴隷」として売買される

本書には、さまざまな「イスラーム国」の構成員やその身内たちが登場する。著者の目には、「イスラーム国」の人々は、暴力や組織内の権力関係に基づかなければ対人関係を構築できない人々として映ったようだ。「イスラーム国」の者たちは、著者が人として最低限示すべきと祈るレベルの同情も、ヤズィディの者には示さなかった。著者たち若い女性は「サビーヤ(=性奴隷)」として売買されたり、贈り物にされたりするという扱いを受ける。そしてその「持ち主」の思うままに暴力を振るわれ、強姦されることになる。

また、著者は「イスラーム国」の者たちが、自ら定めたさまざまな規則を自己中心的・ご都合主義的にしか運用しないさまを目撃する。筆者は長年「イスラーム国」も含むイスラーム過激派を観察してきた。その過程で、ゲーム仕立てで残忍な処刑方法を次々と開発する姿や、閲覧数やヒット数を稼ぐことを至上目的とする文字通り子供だましの動画類を多数目にしてきた。その結果、筆者はイスラーム過激派の構成員や支持者を「まじめなムスリム」と描写することへの違和感を抱き続けてきた。本書で語られる著者の凄惨な体験は、筆者の違和感を裏打ちするものだった。

■ヤズィディへの体系的な「絶滅計画」

一般には、「イスラーム国」の思考・行動様式は理解し難いものであり、彼らの制圧下は倫理のない世界のように見えるかもしれない。しかし、「イスラーム国」自身は彼らの思考・行動を逐一「イスラーム的正しさ」で正当化する言辞をろうし続けている。これらの言辞のほとんどは、コーランか預言者ムハンマドの言行に典拠を求めている。この単純さこそが、「イスラーム国」の知的水準の低さを示す一方、否定しようがない根拠に基づく論理として、一般のムスリムが「イスラーム国」との教学論争にしり込みする理由である。

そうした活動は現在も続いているし、本書の中にも「サビーヤ」制度の創出と運用、ヤズィディの共同体に対する生存権の否定と虐待を「イスラーム的に」正当化する記事やパンフレットの一部が紹介されている。

このような光景は、著者の目には何年も前から計画された、ヤズィディに対する体系的な絶滅計画とも映る。また、「イスラーム国」は「サビーヤ」たちも強制的に改宗させており、その時点で形式的とはいえ彼女たちはイスラーム教徒である。しかし、彼女らに対する「イスラーム国」の者たちの虐待は何ら改まることはなく、そうした虐待の少なくとも一部は「まじめなムスリム」の振る舞いには見えない。

■著者らを「政治的に」利用する人々

確かに、「イスラーム国」は「サビーヤ」や少年兵にした者以外のヤズィディの人々を殺戮した。その一方で、著者やヤズィディの共同体を虐げたのは、「イスラーム国」だけだったのだろうか?

著者は、「イスラーム国」以前はヤズィディの人々とも交流があった顔見知りたちの中にも、「イスラーム国」によるヤズィディ虐待に積極的に参加した者を複数目撃したのである。そうした体験を経て、著者は「機会があればヤズィディなんて皆殺しにしたい」と思っている「スンナ派ムスリム」に取り囲まれているのではないのかという恐れ、不安、そして怒りにさいなまれることになる。

また、本書には著者らを政治的に利用した人々も登場する。彼らの振る舞いは、著者をはじめとするヤズィディの人々だけでなく、著者の救出に決定的な役割を果たした人々の運命を決したものだった。さまざまな裏切りに直面し続けてきた著者は、救出後に彼女の前に現れた「活動家」たちも全面的に信頼しているわけではなさそうだ。

■ヤズィディを虐げた「傍観者」たち

ヤズィディの人々を虐げたのは誰か、という観点から最も重要な存在は、ヤズィディの人々への虐待・殺戮を傍観した人々である。それは、結果を知りつつもそれを防止するために何もしなかった「スンナ派ムスリム」である。「イスラーム国」の圧迫下にあった一般の人々は、通常被害者と認識されるのだが、彼らも著者の怒りや不信の対象である。また著者は、教理・教学面で「イスラーム国」と対決しなかったスンナ派の指導者らも告発する。

「イスラーム国」が台頭した2013年〜2014年の間、同派の占拠地域に潜入し、彼らと接触したジャーナリストや専門家も少なからずいたはずだ。しかし、そうした人々のうちどれだけがヤズィディの共同体への虐待・殺戮について発信しただろうか?

危険を冒してまで「現地入り」した末に、「イスラーム国」を正当化するような情報を発信しただけならば、「現地取材」の意義が問われる。本書は、ヤズィディの人々を虐待・殺戮から救うという観点から、どれだけ効果的な情報の収集・分析・発信ができたのか顧みる契機でもある。

■身近な人々に向ける著者の深い情愛

紛争・性暴力とその防止は、著者の体験や被害を論じる上で不可欠な視点ではある。しかし、問題をそれだけに限定する、あるいは著者の体験を過度に「普遍化・一般化」することには、本書の中でたびたび表明される著者の感情とは相いれないところも見受けられる。本書の中でも、自分は強くも勇敢でもないという著者の自己認識が度々表明される。

また、「イスラーム国」による虐待から脱した後の著者の関心の中心は、自身や身近な人々の安寧や救出である。身近な人々やヤズィディの共同体に向けられる、著者の深い情愛が印象的である。

■裁かれるべきは「イスラーム国」だけではない

紛争とそれに伴う性暴力の根絶という問題意識と並んで重要なのは、何がヤズィディの共同体全体への恐るべき虐待と殺戮を可能にしたのかという問題である。著者の親族の男性もほとんどが殺戮されたし、親族の男児の一人は「イスラーム国」の最末端の兵士へと「改造」された。

ナディア・ムラド(著)/吉井智津(翻訳)『THE LAST GIRL イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』(東洋館出版社)

著者の認識では、「イスラーム国」が関わった紛争の当事者となった諸国・政府・諸組織、そして諸共同体は、ヤズィディの共同体を襲った悲劇を防止する手だてを講じず、進行中の事態を黙殺し、すっかり手遅れになった後に現れた挙げ句、著者やヤズィディの人々を政治的に利用した。

告発され、裁かれるべきなのは「イスラーム国」だけではないし、この種の悲劇を繰り返さないために行動を起こすべきなのは市井のムスリム、特に政治や宗教分野の指導者たちであると著者は明言している。また、「イスラーム国」の行為を、自分はそのような解釈を支持しないと言い訳しつつ、「イスラーム的に正しい」というにとどまった解説や分析は、本当に解説の役割を果たしたのだろうか? 解説・分析分野の末端に属する筆者としても、顧みる点は多々あることを感じさせられた。

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高岡豊(たかおか・ゆたか)
公益財団法人中東調査会 主席研究員
新潟県出身。1998年早稲田大学教育学部を卒業後、2011年に上智大学で博士号(地域研究)を取得。2014年5月より現職。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』(三元社)、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』(明石書店)など。

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(公益財団法人中東調査会、主席研究員 高岡 豊 写真=AFP/時事通信フォト)