球史に名を残すプロ野球選手を輩出してきたPL学園だが、もう一度甲子園の土を踏む日は来るのか…(写真:タッチ / PIXTA)

夏の甲子園が100回記念大会に相応しい盛り上がりをみせている。とりわけ、大阪桐蔭が史上初となる2度目の春夏連覇を成し遂げるかが話題を独占しているが、その長い歴史の中で鮮烈な印象を残した高校を振り返っていったとき、代表校として名前を挙げる人が多い高校の1つが、同じ大阪代表として全国制覇7度(春3回、夏4回)を誇るPL学園ではないか。

1956年創部のPL学園硬式野球部は、2009年までに春と夏の甲子園にあわせて37回出場し、歴代3位となる通算96勝を記録した。卒業後にプロに進んだOBの数も、他校を圧倒する。木戸克彦、西田真二、吉村禎章、桑田真澄、清原和博、立浪和義、宮本慎也、福留孝介、今江敏晃、前田健太……。総勢81人を数え、球史に名を残す大投手、大打者も多い。

高校野球ファンの間で、抜きんでた人気を集める名門中の名門、全国屈指の伝統校がPL学園だった。

だが、100回目となる今回の甲子園の地方大会に参加した3781校の中に、PL学園の名前はない――。

立浪和義が語る野球部への思い

PL学園の硬式野球部が活動休止となってから、はや2年である。1980年代から1990年代にかけて、甲子園のアルプススタンドに巨大な人文字を描き、絶大な人気を誇った同校野球部の廃部を惜しむ声や、活動再開を求める声(動き)もすっかり聞かれなくなってしまった。

「自分だけじゃなく、先輩方や後輩が築いてきた伝統が、簡単になくなってしまった。そして、PL出身の現役プロ野球選手も少なくなってしまった。そのうち、誰もいなくなってしまったら、忘れられていくんでしょうね。それが一番、寂しいです」

そう話していたのは、元中日の立浪和義だ。KKコンビ(桑田真澄、清原和博)の2歳下にあたる立波は、主将を務めていた1987年に春夏連覇を達成。PL黄金期のシンボルのような選手だろう。

廃部の引き金となったのは、度重なる不祥事の発覚だった。2000年代に入ってから、先輩・後輩の厳しい上下関係による、暴力の実態が明らかになっていった。当然、高校時代の立浪もそういう環境に身を置いていた。

「正直、僕らの時代では当たり前というか、あらゆる学校に、野球部だけじゃなくいろんな部活動に、上下関係はあったんですけどね。行きすぎた暴力は良くありませんが、最低限の厳しさは必要ですよ。正直、やりにくい世の中になったな、と思います」

野球部における2年半を生き抜いた者たちは、現代では忌避される部の“伝統”を、完全否定することはできない。

「別に野球選手に限らず、社会人として世に出て、お金を稼ごうとしていく中で、最初は雑用を経験し、修行のような時期って必要じゃないですか。今の若い世代は、最初の雑用段階で辞めてしまうこともある。人生においては我慢しなければならない時期がある。そういうことを学ぶために、スポーツがあると思う。スポーツって、簡単にはうまくならないから、根気よく練習しないといけない。そういうところが、スポーツ選手としてではなく、人として成長させるんです」

PL学園「82人目のプロ野球選手」

PL学園は、宗教法人パーフェクトリバティー教団を母体とする。野球部が廃部へと舵を切っていったその背景には、強くPL教団の意向が働いていた。その内実と経緯は『永遠のPL学園 六〇年目のゲームセット』に詳しく記した。

決定権を持つのが宗教団体のトップ(教祖をはじめとする幹部)である以上、教団の傘下にある学園や、プロ野球選手81人を輩出した野球部のOBたちは彼らに直接、存続を嘆願したり、意見具申することはできない。

彼らに成り代わったつもりで、私は2014年7月からPL学園の廃部問題を取材し、存続・復活に向けて働きかけてきたつもりだ。

そして、新たな動きもある。この秋、PL学園のOBから「82人目のプロ野球選手」が誕生するかもしれないのだ。

その選手の名は中川圭太。2015年にPL学園を卒業し、東洋大学に進学した直後からレギュラーとして活躍。大学日本代表でも活躍を続けてきた大型内野手である。その経歴は、PLのOBで東洋大学から阪神に入団した今岡誠(現在の登録名は「真訪」、ロッテ二軍監督)と同じであり、中川は早くから“今岡2世”と呼ばれてきた。

「偉大な先輩なので、そう呼ばれることは嬉しいですし、今岡さんの顔に泥を塗るわけにはいかない。ドラフト1位は特別な存在。その目標をかなえるべく、いま、野球と向き合っています。自分を必要としてくださるなら、どの球団でもいいと思っています」

そう話す中川がPL学園の2年生だった2013年春。3年生の2年生に対する暴力事件が発覚し、同校の野球部には6カ月の対外試合禁止処分が下った。当時の3年生は、最後の夏を戦うことなく、野球部を引退。そして、この事件を機に、PL教団は野球部の監督に、野球未経験者である学園の校長を据え、翌年の秋には新入部員の募集停止を発表した。

PL学園の灯はまだ消えたわけではない

いわば、廃部の引き金となった事件の被害者世代なのである。中川が当時を振り返る。


「PLのユニフォームを着て野球がしたい、甲子園に出たいという気持ちで入学したのに、ユニフォームを着られない悔しさはあったし、何のためにここに来たのか、という思いは抱えていました。6カ月は長かった」

実質、監督が不在の中で中川を主将に新チームはスタートし、翌2014年夏は大阪大会の決勝まで進出した。中川はセカンドを守りながら守備隊形を指示し、攻撃時はサインを出していた。

「昔は教団も野球に力を入れていたと思うんですけど、不祥事続きで野球部に目を向けられなくなり、すべてが“自分たちでやれよ”という感じだった。それは寂しかったですよね。ただ、実質、監督がいないなかでも自分が監督の役割を担うことで、野球そのものを学べた。甲子園に出場することはできませんでしたが、僕はPLの野球部で良かったと思うし、だからこそ今も野球を続けられているんだと思います。目標とするプロに遠回りしたとは思っていません」

PL学園の野球部は、確かに2年前、消滅した。しかし、その灯はまだ、完全に消えたわけではない。