―私、もしかして不妊...?ー

結婚相談所に助けられながら、気が遠くなるほど壮絶な婚活を経て、晴れて結婚ゴールインを果たした女・杏子。

一風変わったファットで温和な夫・松本タケシ(マツタケ)と平和な結婚生活を送り、はや2年。

34歳になった彼女は、キャリアも美貌もさらに磨きがかかり、順風満帆な人生を歩む一方、心の隅に不妊の不安を抱え始めていた。

そして訪れた病院で、藤木というスパルタ医師の診察を受けるが...?




―初診で“体外受精を視野に入れろ”なんて、あり得ないわ...!!

杏子は憤慨しながら病院を後にした。

せっかくコソコソと勤務時間を割いてまで診察を決意したのに、収穫はもはやゼロに近い。

不妊治療のステップは、まず正確な排卵日を狙って夫婦の営みをする、タイミング法というのが主流であるはずだ。

なのにあの藤木という医師は、不妊の最終手段とも言える高度生殖医療の体外受精を早々に宣告したのだ。詳しく調べてはいないが、とにかく労力と金のかかる治療である。

さらに藤木は、週末に行われている説明会とやらに夫婦揃って参加するよう強制した。患者が無知のまま治療に臨むのは彼の理念に反するというのだ。

―都内一の不妊治療なんて言って、ただの金儲け主義じゃないの...!

それでも杏子がタイミング法を主張すると、「だいたい5日後あたり」と適当な指示をされ、その直前にタイミングを取って来院するようにと、全くヤル気のなさそうな顔で告げられた。

そんな大雑把な診察であれば、妊活アプリで十分である。

「まぁ、正確な排卵日をご希望なら、また3日後に来てください。それで生理が来たら、次は卵管造影検査ですね。くどいようですが、もう2年も妊娠されないなら、タイミング法をのんびり繰り返しても時間と精神力が無駄になるんで」

杏子は、そう無表情で語った冷たい藤木の言葉を思い出す。

その場は眉間にシワを寄せつつ「はい」と返事をしたが、内心は“卵管造影検査”というものに恐れ慄いていた。


願わくば、簡単な治療で済ませたい杏子だが...?


優しい夫に、相談できない理由


その夜、杏子は藤木の病院の口コミを血眼で検索していた。

これまでは婦人科系のコンテンツサイトや病院のHPを読むことが多かったが、それよりもずっと参考になるのは、実は一般人の口コミやブログである。

ネット上には、不妊治療中の女のブログや掲示板が無数にあるのだ。

―あの藤木って医者、批判も多いじゃないの......!!

“不妊治療の権威”“不妊のカリスマ”などと一部では崇拝される一方で、藤木はやはり、その高圧的な態度や冷たい物言いで、患者泣かせとしても有名なようだ。

「心無い言葉に、思わず涙が出ました」
「治療について質問したら、露骨に嫌な顔をされました」
「いくら腕が良くても、あんな人に治療して欲しくありません」

など、反・藤木派の口コミは探せば探すほど出てくる。

それに、一応は3日後の再診予約を入れたものの、今日のように2時間近くも待たされては仕事に支障が出てしまう。

何よりも、次に生理が来てしまえば“卵管造影検査”が待っているのが恐ろしかった。

―激痛って噂の検査よね...。そんなモノ、本当に私に必要あるのかしら...。




「アイムホ〜ム!」

ハッと気づくと、夫のマツタケが歌うようにリビングに入ってきた。今日は友人とパーティーだったそうで、珍しく杏子よりも帰宅が遅い。

「おかえりなさい」

酒で顔を赤らめたマツタケは上機嫌で口笛を吹きながら、キッチンで何やらゴソゴソと探っている。

「どうしたの?」

「餅、探してる。コバラ減った」

そんな彼の隣には、帰り道にコンビニで買ったと思われる巨大なコーラとカップ麺、雪見だいふくまで陳列していた。

「ちょっと!ゴハン食べてきたんでしょう?!」

杏子は思わず声を荒げてしまい、マツタケはそれに驚いて固まった。

普段は食いしん坊のマツタケに苦言はしないし、むしろ温かく見守っている。しかし今の杏子には、神経をピリピリと逆撫でされるのに十分な蛮行だった。

妊活成功の第一歩は、バランスの取れた健康な食事なのである。

「あ...ごめん。でも、もう夜中の12時を過ぎてるのよ?食べるなら、せめてお餅だけにしたら?もう30代半ばなんだから、もう少し健康に気をつけないと...」

「ソーリー、ソーリー!」

しかしマツタケは明るく謝りながらも、結局餅を3個も焼き、コーラの蓋を開けた。杏子はそれ以上文句を言えず、苦々しくその光景を眺める。

―マツタケにも、協力してもらうことになるのかな...。

実は杏子は、不妊について、何となく夫に相談できずにいた。もちろん、病院に行ったこともマツタケは知らない。

自分一人が何かを改善して妊娠できるならば、それほど楽でシンプルなことはない。

それに、2年以上妊娠に至らない夫婦が“不妊”だという事実も、まだ実感できない。今日の血液検査の結果や超音波の診察も、今のところ特に問題はないようだったからだ。

何より杏子は、苦労して手に入れた幸せな結婚生活に“不妊治療中の夫婦”なんてレッテルを貼りたくはなかった。


スパルタ医師を諦め、転院を決意する杏子だが...?


VIP待遇の不妊治療


数日後、杏子は結局、ちがう病院を訪れていた。

結婚相談所のアドバイザーの直人そっくりな医師・藤木に少し心残りはあるが、デリカシーのない口調や待ち時間の長さ、夫婦での説明会参加強制など、通院するにはハードルが高すぎる。

そうして口コミや不妊治療ブログを頼りに探したのは、待ち時間が短く、患者をVIP並にもてなすのを売りにしたクリニックだ。

「松本さま、お待ちいたしておりました。こちらをご記入して少々お待ちくださいませ」

院内の雰囲気は、まるでホテルのロビーだった。

中央には巨大な胡蝶蘭が悠然と飾られ、待合室のソファの質も高ければ、受付の女性も美しい。彼女たちはもはや白衣など着ておらず、まるでCAのような制服で、首には鮮やかなスカーフを巻いている。

問診票を記入していると、すぐに診察室に呼ばれた。

「松本さんは、自然妊娠をご希望ですね」

そこには、柔らかな笑みを浮かべた美しい女医がいた。

「はい。前の病院では初診で難しいと言われたので...。2年以上妊娠しない場合は、本当に自然妊娠は難しいんですか?」

「...それは何とも言えませんが、病院や医師によって、意見や検査、治療も多少変わりますので...。しかし当院は、なるべく患者様の希望に合わせた治療を効率よく進めていきたいと思っております。

今後、不安や疑問等ありましたら、何でも仰ってください」




女医の温かい言葉に、ギスギスした気持ちがみるみる溶けていく。少々料金は高くなるが、この病院ならば、安心して身を任せられそうだ。

杏子は改めて血液検査や内診を済ませ、ちょうど排卵間近だったこともあり、すぐにタイミング(夫婦の営み)を取ることになった。

そしてまたその翌日に来院し、今度は“フーナーテスト”というものを行うという。

「タイミングをとって頂いたすぐ後に、子宮頸管の粘膜を採取し、それに含まれる精子の数や運動状態を調べます。これによって精子が子宮にきちんと入っているかが分かります」

杏子は初めての試みに緊張したが、何とかごくさり気なくマツタケと夜の行為に及び、フーナーテストの結果はなんと良好であった。

美しい女医も「ちゃんと子宮に入ってますね」と笑顔で結果を伝えてくれ、淡い期待に胸が高鳴る。

―こんなに正確に排卵日に合わせて、精子もちゃんと確認できたなら...!ひょっとすると、ホントに妊娠しちゃうかも?!

しかし。その数週間後。

杏子のもとには、1日の狂いもなく生理が訪れたのだった。

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タイミング法を試すも、必ず来る生理。とうとう本格的な不妊治療が始まる...?