「絶対に眠らない街に最適の足」と強気な宣伝文句を掲げるロンドン地下鉄「ナイトチューブ」の広告(筆者撮影)

「地下鉄の深夜運行のおかげで、終電を逃す人たちへの心配はなくなったわ! 五輪のときは帰れない人が結構出て大変だったんだから」

ロンドン地下鉄の女性ボランティアが笑顔で話してくれた。8月上旬にロンドンで行われた世界陸上。短距離の世界記録保持者、ウサイン・ボルト(ジャマイカ)が走る最終戦の舞台となったこともあり、5万人以上が収容できるロンドン五輪のメイン会場となったロンドンスタジアムは連日満員御礼、22時過ぎに終了する夜のセッションの観客を終電までに地下鉄に乗せる作業は、ボランティアたちにとって難儀なことだった。

「地元選手のモハメド・ファラーが1万メートルで金メダルを取った初日の夜は、お祭り騒ぎでなかなか会場から観客が出て行かなかったの。でも、週末は地下鉄が終夜運転だから大丈夫ってわかった途端、『もうみんな、好きに騒いで』と思った」

導入は大幅に遅れた経緯も

ちなみにロンドンスタジアム最寄りの地下鉄駅・ストラットフォードの市内行き終電が出る時間は平日の場合、0時15分ごろ。この時間に電車がなくなると、競技終了後の余韻で一杯飲んでから乗車するには少々時間が足りない。そもそも5万人からの観衆を駅へ入れるのもなかなか大変な作業だ。

「ナイトチューブ」と呼ばれるロンドン地下鉄の終夜運行は2017年9月現在、ヒースロー空港と市内中心部を結ぶピカデリー線をはじめとする5路線で行われている。終夜運行とはいうものの、実際に行われているのは金、土曜の夜から早朝にかけてのみで、平日の夜間はナイトバスがその任務を負っている。

ナイトチューブが現在走っている状況を東京メトロでたとえると、「都心部を走る銀座線と丸ノ内線では運行していない」といった感じだ。また、特徴的な点としては、ロンドン最大の国際空港・ヒースローへの足を確保していることが挙げられる。早朝6時出発便でもナイトチューブのおかげで4時台の搭乗手続きも難なくこなすことができる(平日はナイトバスがあるが、地下鉄のほうが圧倒的に速い)。気になる運賃だが、深夜割り増しといったケチな制度はなく、日中とまったく同じ料金で乗れる。

ナイトチューブは当初、2015年秋の導入を目指していた。この年、英国ではラグビーワールドカップ(W杯)がロンドンの3会場を含む国内11都市で開かれた。世界中から集まるラグビーファンたちが、夜遅くまでパブでビールを飲み交わすと想定されていたため、地下鉄の終夜運行は不可欠と準備が進められていた。ところが「深夜帯の業務に対する手当が足りない」と訴える乗務員組合の抵抗に遭い、度重なるストも発生、ラグビーW杯開催までに導入を果たせなかった。


「ナイトチューブ」の路線図(右)は星空をイメージした濃紺色が使われている(筆者撮影)

その結果、直接的な「とばっちり」を受けたのは観衆たちだった。開幕戦が行われた日の夜、ロンドン西郊外にあるトゥイッケナムスタジアムの最寄り駅から市内へ向かう鉄道が長時間にわたり不通に。その結果、市内に戻ったものの地下鉄の終電を逃し、ホテルにたどり着けなかったファンが続出。「ホテルが1泊8万円もしたのにベッドで寝られなかった」とか、「タクシーをやっと見つけて乗り込んだら、とんでもなく高かった」などさまざまな「被害」が出た。

今のところ、郊外区間を除くほぼ全線にナイトチューブが導入されるのは2020年と予定されている。その頃には、街を横断するクロスレール(エリザベス線)というまったく新たな鉄道が生まれるので、ロンドンの公共交通機関は大きく様変わりしているはずだ。

終夜運行は雇用促進にも寄与

ナイトチューブ運行開始から1年が過ぎた今年8月、サディク・カーン・ロンドン市長は「想定以上に経済効果が上がっている」とメリットが大きいと強調する。地理が不案内な観光客はかつて、地下鉄がなくなった深夜には宿に戻るのにタクシーに乗る選択肢しかなかった。だが、「地下鉄で安全かつ安価にホテルへ帰れる」となれば、パブ、クラブなどでロンドンのナイトライフをじっくり楽しもう、という人々が出てくるのは当然だろう。欧州大陸の若者たちは、ロンドンで一度はクラブやディスコで踊って騒ぐ「クラビング」を体験したいとあこがれることもあり、地下鉄が深夜に走ることで時間を気にしながら楽しむ心理的ストレスから解放されるメリットは大きいといえる。

ロンドン市役所によると、ナイトチューブの運行で、深夜に営業するレストランやバーが増えるなどにより間接的な雇用がロンドン全体で3600人増えたほか、年間の経済効果が1億7100万ポンド(約240億円)と、当初予測の7700万ポンドに比べ2.5倍近くに達したという。

ナイトチューブの運行は数字のうえでも順調に推移していることがわかる。ナイトチューブが運行開始から1年の節目となった8月18〜20日の週末には、深夜帯の累計利用者数が800万人に達した。また、一晩当たりの利用者数は15万人を超えている。

夜間の駅では、駅構内での乗客同士のトラブルや不審者の居座りなどさまざまな問題が起こりそうな危惧を覚える。ロンドン交通局はナイトチューブの運行を前に、酔っ払いの嘔吐物を片付けることを想定して車内にチキンスープの缶詰を丸ごとこぼして、それを即行で片付ける「練習」もしたという。

ナイトチューブは日中とほぼ同じような形で順調に運行されている。ただ、目下の運行事業者の「悩み」はホームレスが夜間運行の地下鉄やバスの車内を“寝ぐら”として使うことだという。ホームレスの「利用推移」を調べた統計によると、ナイトバスの車内で寝泊まりする人の数は過去3年で倍以上に膨らんでいる。

東京五輪の終夜運行プランは?

ロンドン地下鉄では、非接触式ICの「オイスターカード」を使って改札に入ると入場後の制限時間が決まっており、一定時間以上改札内にとどまると罰金を取られる規定がある。しかしながら、ホームレスがそもそも正式な切符を持って入場しているかどうかも疑わしく、80ポンド(約1万1300円)の無札乗車の罰金を課そうにも支払いが難しいとあっては、なかなか取り締まりの効果も上がらない。

目下のところ、東京五輪開催時における公共交通機関の終夜運行の具体的なプランについての情報は聞こえてこない、競技が夜遅くまで延びたとき、帰路につく観衆の足のケアはどのようなことになるのだろうか? すべてタクシーに依存するのか、それとも「新国立競技場から山手線内くらいの距離なら歩いて帰ってほしい」と考えているのだろうか? 世界の大都市における終夜運行の事例を見習って、訪日客に対するケアを含めた「深夜の移動手段の確保」を改めて考えてほしいものだ。