昨季はプロ3年目で自己最多となる129試合に出場し、巨人の正捕手の座をつかんだ小林 誠司。2017年WBCにおいても攻守に活躍し、決勝トーナメント進出に大きく貢献した一人に挙げられている。そんな侍ジャパンの正捕手はいったいどのような高校球児だったのだろうか。10代の成長過程を知る恩師・中井 哲之監督に話をうかがうべく、小林選手の母校、広島・広陵高校に向かった。
「あの子がプロ野球選手に?」と言いたくなる選手だった中井 哲之監督(広陵)
「いやぁ、最初の印象と言われても特にないんですよねぇ…」広陵高校に到着し、監督室を訪ねると、中井 哲之監督が出迎えてくれた。早速「教え子の入学時の印象」というテーマを投げかけてみると、冒頭のコメントが苦笑いとともに返ってきた。「ぜんぜん目立たない子でした。入ってきた頃のことは正直、ほとんど覚えてないです。まさに『あの子がプロ野球選手になるとは…』と言いたくなる選手なので…」
大阪・堺市出身の小林 誠司。中学時代は大阪泉北ボーイズに所属し、ポジションは遊撃手兼投手だった。中学卒業後は親元を離れ、広島・広陵高校での寮生活を選択。同学年には現広島カープの野村 祐輔投手(関連記事)がいた。以前、取材を通じ、小林と高校入学時の話になったことがある。中3当時のスピードは125キロ。「中学でピッチャーの楽しさに目覚め、高校でもピッチャー志望。野村を完全にライバル視していました」と語った。
ところが高校1年の秋、小林は敗戦後のチームバスの中で突然、捕手コンバートを中井監督より言い渡される。理由は伝えられなかった。野球を始めて以来、捕手は一度も経験したことがないポジションだったが「はい」という他なかった。
以前、野村 祐輔がこの日のバスの中での出来事を話してくれたことがあった。「一年生大会で負けた帰り道のことでした。重苦しい空気の中、突然中井監督が叫んだんですよ。『おい、小林〜!おまえ今日からキャッチャーやれ!』って。そりゃあびっくりしましたよ。そんな発想、監督以外は誰にもなかったと思いますから。あのシーンとしたバスの空気はいまだに忘れられません」
「そんなこと言いましたねぇ」と懐かしそうな表情で笑う中井監督。12年前の秋の記憶を辿りつつ、教え子・小林 誠司とともに過ごした日々をゆっくりと語り始めた。
キャッチャーコンバートを決めた背景とは小林 誠司(読売ジャイアンツ)
小林の学年のキャッチャー陣が手薄だったことが響いた敗戦だったので、帰りのバスの中で、「この学年のキャッチャー、なんとかしないとなぁ」と思い、考えを巡らしていたんです。その時にぱっと誠司が浮かんだんですよね。その場ですぐに言いました。「おまえ今日からキャッチャーやれ」と。すぐに「はい」と返ってきたので「お、やる気あるんだ」と思いましたが、監督に言われたら、誠司もそう言うしかないですよね。
コンバートを命じた理由ですか?肩が強かったことと体に柔らかさがあったこと。そして気配りができそうな心の優しさを感じたことですね。体の強さはまだ備わっていませんでしたが、捕手としての練習を続ける中で筋力と俊敏性がついてくれば、歴代の広陵のキャッチャーの中でも「並」レベルにはなれるのではないかと。
野球選手として誠司を生かすという観点でみても、ピッチャー、ショートよりは、キャッチャーのほうがいいのではないかという予感がありました。ピッチャーには野村 祐輔がいましたし、バットを持たせてもガンガン打つわけでもなく、足が速いわけでもないのでショートが彼の生きる道というイメージも湧きづらかった。
仮にキャッチャーとしてものにならなくても、ピッチャー、ショートにはいつでも戻れる。それならば、キャッチャーに挑戦したことで得る経験の方が、誠司にとってプラスに作用するという思いもありました。
とはいえ、誠司にとってキャッチャーはやったことのない未知のポジション。最初のうちはボールが怖くて仕方がなかったらしく、コーチが「どうだキャッチャーは」と声をかけた際には「マスクをつけても目をつむってしまいます。怖いです」「ほんとはキャッチャー嫌なんです」と弱音を吐きまくっていたそうです。私の前では口が裂けても言えなかった本音でしょう。
後編では小林誠司選手のことがさらに好きになるエピソードを紹介します!!
(取材=服部 健太郎)
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