画像はイメージです(Gábor Kovácsさん撮影、Flickrより)

「生きづらさ」という言葉を、最近よく聞くようになった。現代を生きる私たちが抱える有形無形の問題、そしてある種の閉塞感。その「つらさ」の度合いは違っても、少なからぬ人がこの感触を味わっているのではないだろうか。

一方、先日83歳の誕生日を迎えたぶらいおんさんが感じているのは、現代の「死に辛さ」という問題だという。

「生きづらさ」より「死に辛さ」の方が深刻かもしれない

当コラムを読んで下さっている方なら、今上天皇陛下が、「生前退位」の意向を持たれているようだ、との報道について筆者がコメントしたコラム<82歳筆者が考える「天皇陛下『生前退位』問題」...同時代を生き抜いた同期生として>にも目を通して下さったかも知れない。

もし、これで、専ら若い人たちや壮年者たちに関する問題と捉えられ勝ちな、いわゆる「生きづらさ」が、実は必ずしもそうでは無く、高齢に達した人々(たとえば、天皇や筆者ぶらいおん)にとってもまた、それなりの問題なのだなぁ、と考えを改める機会にして頂けたなら、それは、それで意味があった事になる。

ところが、丁度、この原稿を執筆していた去る7月31日に誕生日を迎えて、天皇陛下より一足早く83歳を迎えた筆者ぶらいおんが、切実な思いと共に実感しているのは、余り見掛けることも無い、「死に辛さ」(づらさ)という言葉である。

我々の生きる現代は"生きづらく"、そしてまた"死に辛く"もある時代なのかも知れない。(二つの表記「つらさ」と「辛さ」を意識的に区別したのは、後者は、少なくとも今現在は若い人より専ら高齢者に関わる言葉であろう、との筆者の細やかなこだわりに過ぎぬ。)

これから取り上げるのは、現実の話であり、また私自身に関わる個人的なことでもあるのだが、当事者(つまり、私と先方および/またはそれらに関わる第三者)全員の気持ちや意図に関わりなく、結果として、筆者の周りの、それらの方々に思わぬ誤解や迷惑を掛ける恐れが無い、とは言い切れない。

それでも、敢えて筆者はその問題を取り上げることにした。これは、一方で普遍性のある問題でもあるはずなので、何処かで、同じような思いを抱きながら、心を痛め、悩んで居るのに、現実的にはどうすることも出来ず無力感に打ち拉がれ、途方に暮れている方々が居られるに違いない、と考えたからである。

筆者の母は、明治の末期44年7月13日に鹿児島県の甑島(こしきじま)で産まれた。従って、つい先日の誕生日で満105歳を迎えたことになる。つい、先日までは特別養護老人ホームに入居し、気持ちの良いスタッフ達の介護を受けながら心安らかに暮らしていた。ここに入居出来たのは、昨年平成27年の8月だったから、今、ほぼ1年経過したところである。

言うまでも無く、長男である83歳の筆者がそれなりに見守っているわけだから、将に絵に描いたような老々介護状態と言ってよいだろう。

これまでの筆者の信念は、国や行政の進める方針とは関わりなく、自宅で自然に死を迎えるためには「在宅介護」以外には考えられない、ということであり、その方針で母のことも進めて来た。

それは、人(自分も含めて)は誰でも、馴染みの無い病院などでは無く、住み慣れた自宅で最後を迎えたい、と望むのがごく自然であろう、と考えて来たからに過ぎない。しかしながら、生き物の世界は、特に人間のように長生きする動物では、今は、そう思い通りには行かない世の中になって来た。

つまり「生きづらい」だけで無く、高齢者にとっては大問題である「死に辛い」世の中にさえ、なってしまったのだ。江戸時代(以前は無論のこと)から、明治、大正、そして昭和の戦中、戦後の混乱期までは、多分、然程「死に辛さ」は問題にならなかったろう。表現が適切ではないかもしれぬが、「適宜に、塩梅良く死ぬこと」には然程苦労し無かったろう、と想像される。

加齢による肉体的老化が精神的衰退と案外バランスが取れていたに違いない。無論、本人の気持ちとは無関係に、特に同居家族に、思わぬ負担を掛けてしまうケースが皆無だった、とは言い難いが...。

しかし、社会問題となるほど顕在化はしなかった。でも、今は医療技術も進み、衛生状態や人が生活する環境も格段に改善されたことによって、罹病するケースも減少しただろうし、たとえ罹病したとしても回復する割合が圧倒的に上昇したことによりタイムリーに死ぬことさえ困難な事態が生じて来た(表現が不適切である、と考える向きもあろうか?と思うが、敢えて筆者の責任において、意図的にシニカルに表現する場合のあることを、ここで改めてお断りして置こう。以降は一々断らない)。

母は可成りの年齢になってから、「もう生きていても仕様が無い。早くお迎えが来てくれればよいのに」とよく口にするようになった。しかし、人間というものは、それほど単純なものでも無い。だから、「ああそうですか。それならご希望に応じて」という訳には無論行かない。第一、口に出した当人が、本当に心から切実にそう願い、それ以外の選択肢は一切考えて居ない、という保証はどこにも無い。

元々人間の心など定まらないものだし、先ず、生き物は本能的に飽くまで死を回避しようというのが自然の摂理に沿うことだ、と思われるからだ。

だから、母が殆ど寝たきりになって、その種の繰り言が多くなってからでも、自宅で食事介助しながら、気分の良いとき、好きなワインを薦めると、それを楽しんだりして良く昔話などしたものだった。

しかし、100歳頃には、筆者も80歳前後となり、自身が、それまで簡単に出来ていたことを遂行するにも可成りの努力を要するようになって来た(老々介護の特有事態発生)。

1日の3度の食事と、何回かの排泄処理などは肉体的には1人での介助は全く無理、補助してくれる筈の、筆者より年下の家人は自ら骨粗鬆に起因する圧迫骨折状態で当てにすることは出来ぬ、となれば、他者の手を借りない限り、介助不可能となった。

幸い、介護保険の適用可能な巡回型訪問介護を利用することによって、大きな援助を受けることが出来た。それでも、3度の食事は全て当方でやらねばならない。そこで、訪問介護のヘルパーさんの巡回時刻に合わせて食事を摂るようにした。しかし、これでも、筆者の時間は可成り束縛されることになった。

母には、有り難いことに殆ど認知症の症状は見られなかった。それでも、自分だけでは何一つ出来なくなったので、何か行動を起こそうとするときは、唯一同居する老夫婦である我々の何れかを呼ぶことになる。そして、それが偶に体調が落ちたようなときには呼び出しが真夜中だったりする。
そして、この辺りが、一般的には普通なのであろうが、姑である母は実子の息子を起こそうとはせず、嫁の名を連呼する。しかし、現実は、丁度母の部屋の真上に位置する部屋で就寝している私の方が、寝込んで応答しない家人より先に気付き、階下の母を観に行くと、世の中が寝静まっている時刻にそぐわない用件だったりする。そんな時は、実の親子であるが故に筆者は遠慮せず「非常識な時間帯である」ことを告げ、「夜が明けてからにしよう!」と、一方的に宣言して、再び自分の布団に戻ってしまう。

そんなことを偶に繰り返しながらも、医師の訪問診療だけで過ごして来たのだが、或るとき、普段体温の低い母にしては、やや高めの状態が続いた。筆者は然程心配はしていなかったが、訪問診療の若い医師は、骨粗鬆症の圧迫骨折もあるし、肺炎の前兆かも知れないので、大事を取って入院した方が良いのでは...?と筆者に強く薦めた。

その結果、極最近まで入居していた老人ホームと同系列経営の中規模の病院に入院することになった。それは多分、平成27年の早春のことであった、と記憶する。

筆者の子供の頃は自分の家や親族が、多く医、歯学関係に属するという環境にあった。だが、当時から筆者はそのような環境は自分の性向とは余り馴染まない、と感じて来た。それで、歯科医師の父の後も継がなかったし、全く関係の無い仕事に関わって来た。その上、自身、今まで大病で医者に掛かったことは無いし、入院などしたことも無い。だから、別に怖いというわけでは無いが、病院は余り好ましい所では無く、病院というものに対するイメージは普通の人より良いとは言えないのかも知れない。

だから、自分は勿論、家族も余り病院には近付けたくない、というのが本音である。従って、母が止むを得ず入院したとしても、出来るだけ早く退院させることだけを、これまでは心懸けて来た。

しかしながら、自然は非情なもので、こちらサイドの甘い思惑などとは全く関わりなく、既に私が気付いたときには老々自宅介護が事実上不可能となっていた。

それで、母の治療が済んで、病院からの退院が許された後も、同じ病院に設けられた介護病棟の方に移って療養介護状態下で入院を続けた。
当時から今でも、最低1週間に1度は母を訪ね、食事介助することを習慣としている。しかしながら、率直に言って、病院は何処まで行っても「病院」である。筆者には「病院」の負のイメージと院内感染の心配を伴う余り好きになれない場所という概念を払拭することが出来ない。

そうこうする内、幸運なことには、申し込んであった隣接する特別養護老人ホームに空きが出来、母はそちらに入居することが出来た。それが、上記の昨年8月のことである。

入居出来た老人ホームは個室であり、食事の際は広いホールに全員集合して賑やかに食事する。
意識のはっきりした人、軽い認知症状の人、今の母のように反応の乏しい人たちが全て、ヘルパーさんや偶に訪れる筆者のような入居者の家族まで含めて一堂に会することになる。

病院の印象とは大きく異なる、恵まれた環境で、たとえ在宅看取りは出来なくても、母は小さな自分の空間での最後を保証された、と大いに幸運を喜んでいたのだが、1年経つか、経たぬうちに、気に入った老人ホームを意に反して退去せざるを得なくなった。

それには、無論理由がある。入院前の自宅介護の時から母の顔面左側には500円硬貨大の悪性腫瘍が発症していた。皮膚科専門医の診断と当方の了解の下、高齢の故を考慮して手術は行わず、傷口を消毒し、塗り薬を塗布しながら経過を注視する、という結論に達し、その方針を保持し、老人ホームでもその方針を引き継いで貰っていた。

ところが、その腫瘍の下部、顎の下、首の付け根辺りに、新たなしこりが発生し、それが徐々に大きく目立つようになって来た。

当初から、当方の希望で、嚥下や摂食に影響無い限り、特別な手術は行わない、というルールは老人ホームでも守られて来た。しかし、ここへ来て、老人ホームの方から、日常のガーゼ交換や傷口の処置も、今後の病状の悪化を懸念すると、今やこちらでは対応し切れなくなった、と告げられた。
そして、その都度、隣接の病院から医師の往診を仰ぐより、老人ホームを退去し、改めて病院の方に入院するように、と勧告された次第である。

しかし、ここで、理解して頂きたいのは、筆者の目からすれば、「更なる悪化による懸念」は理解出来るものの、今の時点で「その懸念状態が発現している」とは思えないことだ。

それ故、家族としては、いわゆる病院では無く、老人ホームの方で治療を受けるという、これまで続けて来た形態を続行出来ないか?強くお願いしてみたが、もう既に限界だ、という返事しか戻って来なかった。

1週1度訪問するだけでも分かるが、介護士さんやヘルパーさん達のルーティーン作業が如何に大変なものであるか、ということは筆者も重々承知している。全く頭の下がる思いだ。それでも、入居者の家族としては、自宅が事実上無理なら、せめて病院では無い、この静かな環境での最後を、母に静かに迎えさせて上げたい、と願うのもまた、偽らない真情である。

多分、そこには行政の規定に従った介護保険と医療保険との厳密な区分が有るのであろう。幾ら情に訴えたとしても、行政の補助無しには成り立たない施設側の立場も当然有るであろう事は想像に難くない。

何事にも、建て前と本音(というよりは実情あるいは実態か?)があることは世の常である。

たとえば、昔なら、こんなことを発言する前に起立、直立不動の姿勢を取り、大声で「恐れ多くも陛下におかせられましては...」と述べた上で今上天皇の「生前退位」問題を語らねばならぬのだろうが、この問題にしても、法律上の規定の方が現代の実情に合わない、単に時代後れであることに起因する無理を、一方的に一人の高齢者に押しつけている事例に過ぎない。

筆者と同期生の彼(天皇)が気を使って憲法に抵触しないように、伝え方を工夫しながら、それでも伝えねば我が身ももたないし、後に続く者も苦労するだろう、と必死に訴え掛けようとしている姿を見ていると、今更ながら「生きづらく」、その上高齢者にとっては「死に辛く」さえなった現代という世の中を今更ながら、つくづく考えさせられる。

そしてもっと深刻なのは、筆者のような高齢者が、私の母のような状態となったときの我が子の立場を想像してしまうことである。

別な言い方をしてみると、そういう事態に陥らないようにするために、此の世から上手く姿を消す目的で、自分にはどんな手段や方法があるのだろう?そして果たしてそんな手段をタイムリーに判断し、実践することなど可能なのだろうか?と深く考え込んでしまうことだ。

もしかすると、現代は「生きづらさ」より「死に辛さ」の方が余程深刻なのかも知れない。「生きづらい」世の中を、それでも健気に生き抜いた元気な若者たちも、このままでは、いずれ逃れようのない深刻な「死に辛い」底なし沼に足を取られるであろうことは(残念ながら)想像に難くない。

読者諸氏は果たして、どう、お考えになるだろう?

筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になって、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、今は地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、西方浄土に日々臨む後期高齢者、現在100歳を超える母を介護中。https://twitter.com/buraijoh