滋賀・八幡商業を卒業後、三重中京大を経て、2012年秋のドラフト2位指名にて東北楽天ゴールデンイーグルスに入団した則本 昂大投手。今季はプロ入団以来3年連続となる二桁勝利をマークし、シーズン終了後に開催された世界野球大会・プレミア12においても侍ジャパンの投手陣の主軸として奮闘。今や日本球界を代表する右腕のひとりだ。
そんな則本投手はいったいどのような高校球児だったのだろうか。高校時代の成長過程を見守り続けた恩師・池川 隼人監督に話をうかがうべく、滋賀県近江八幡市に位置する則本投手の母校、八幡商業の野球部グラウンドを訪ねた。
池川監督が抱いた最初の印象則本 昂大投手が高1の夏に八幡商は甲子園出場(則本投手は甲子園練習のみ参加)
「腕がしっかりと振れるピッチャーだなぁ!」それが彼のピッチングを初めて見た時の第一印象でした。オーソドックスなオーバースローのフォームから、スピンのきいたキレのある「綺麗」なストレートを投げこんでいた。入学時のスピードは最速で130キロ程度。コントロールもよく、四球で試合を壊さないタイプだったので、1年生の時の夏の大会では4番手投手の扱いでベンチ入りメンバーに選出しました。
その夏にチームは甲子園出場を果たしたのですが、甲子園ではベンチ入りの枠が滋賀大会よりも2名減り18名になるため、甲子園の登録メンバーからは漏れてしまいました。しかし、秋の新チームからは2番手投手として公式戦のマウンドに上がり、最上級生時にはチームの絶対的なエースとして1番を背負いました。残念ながら甲子園には出場できませんでしたが、「自分がチームを背負っているんだ!自分がやらなきゃ!」という気持ちがものすごく伝わってくる、責任感の強いエースだったことをよく覚えています。
マウンドに上がると人が変わる!?ユニホームを着ていない時は冷静で周りが良く見えている、穏やかな男なのですが、いざユニホームを着てマウンドに上がるとスイッチがグッと入る。「絶対に抑えてやるんだ!」という気迫がビンビン伝わってくるピッチャーでした。そのことが力みにつながり、結果甘いところに入ってしまって痛打されてしまう場面も少なくはなかったですが、相手打者に対する対抗心は人並み外れていました。負けず嫌いな性格がマウンドで溢れ出ているようなピッチャーでした。
手を抜いているシーンなど見たことがない彼はブルペン投球を行う際も「今日は球数をこなす日」「今日は変化球の制球力を磨く日」「今日は新しいフォームを試す日」といったように、その日のブルペンでのテーマを必ず設けていたことをよく覚えています。漠然とブルペンで投げているシーンなど一度も見たことがありませんでした。
自主練習の時間もとにかくよく走っていました。長い距離も短い距離も自分でプログラムを組み、自身の意思で誰よりも走っていました。日々の練習への意識が高く、たとえ自主練習であっても、手を抜いているシーンなんか見たことがない。「一生懸命練習する」という言葉がぴったりの選手でした。
[page_break:情報収集と取捨選択に長けた高校球児]情報収集と取捨選択に長けた高校球児則本 昂大投手が高校時代に投球練習を行ったブルペン(県立八幡商業高等学校)
「もっとうまくなりたい!」という気持ちがひしひしと伝わってきましたし、うまくなるための探究心がものすごかったですね。プロの選手のいろんな映像や連続写真なども自分で入手して研究していました。
変化球を習得する際もいろんなプロのピッチャーの握りを本などで研究し、たくさんのピッチャーの握りを、いったん情報として自分の中に入れてから、自分にはどれが合うのかを試行錯誤しながら、判断していく。指導者が何も言わなくても、自分が向上していくために自分の頭で必死に考え、試行錯誤ができる高校生はなかなかいません。情報を採り入れる能力と、自分に合うものを取捨選択する能力がものすごく高い高校生でしたね。
プロに辿りつく予感は皆無だったスピードは2年生で135キロ、3年生で140キロと順調に上がっていきましたが、それはあくまでもMAXの数字。アベレージの球速となると高3時でも130キロ前半に過ぎず、相手打者に合わされやすい真っすぐでした。球質も軽く、当たると飛距離が出てしまう。小気味のいい投球をする高校生らしいピッチャーではあったけど、ストレートで空振りをとれるほどの球威はなく、タイプとしてはあくまでもスライダーピッチャー。きれいにまとまりすぎていて、凄みなどは到底感じられない投手でした。
ボディサイズは高3の夏の時点で174センチ68キロ。高校入学当時を思えば身長、体重の数字は彼なりに伸びてはいましたが、ピッチャーとしては依然小柄の部類だったし、特別がっしりとしているわけでもありませんでした。
高校の時点で彼が後にプロになるような予感は正直なところ、全くなかったです。ただ、彼の日々の姿勢からは「上のステージでも野球をやるんだ!」という思いは強く伝わってきました。その「上」が大学までなのか、はたまたプロの世界を含んでいたのかどうかはわかりませんが、「野球人生は高校で終わりじゃない!」という思いで高校野球と向き合っていたことは明らかでした。「この子は大学で大きく伸びるかもしれないな。伸びればいいな」という思いで三重中京大学へ送り出しました。
[page_break:大学2年でやってきた覚醒の時]大学2年でやってきた覚醒の時彼が大学2年生の秋にうちのグラウンドに練習をしにきたことがあったんです。当時、既に150キロのストレートを投げられるようになったと聞いてはいたのですが、ブルペンで彼が投げたボールを見て、唖然としてしまいました。キャッチャーを座らせない、立ち投げだったのにも関わらず、ボールが高校時とは全くの別物。軽そうだったボールは強さを備え、球威もキレもすさまじい進化を遂げていました。
高校時代はどちらかというと小さくまとまった印象のあった投球フォームも、現在のようなダイナミックなフォームに変わっていました。その時に思いましたね。「あ、こいつ、プロに行くな」と。
通過点に過ぎなかった高校時代池川 隼人監督(県立八幡商業高等学校)
当然、彼には「高校を卒業してからたった二年でどうやってこんなボールを投げられるようになったんだ!?」と尋ねました。返ってきた答えは、「体重が増えたことが一番の要因だと思います。体重が増えるごとに球速が上がっていきましたから」
聞けば、その時点での彼のボディサイズは178センチ82キロ。高校3年の夏から身長は4センチも伸び、体重は実に14キロ増。下半身もかなり大きくなっていたことに驚くと「ウエイトトレーニングを積極的に取り入れてますし、とにかくよく走っています」という答えが返ってきました。
その時に思ったんですよ。高校の間に身長が伸びきってしまう選手は少なくないけれど、彼の身体は高校生の段階では依然、発展途上の真っ只中だったのだと。身長が伸び続けているときは体重も思うように増えない。大学で4センチ伸び、身長が落ち着いた途端、高校の時はなかなか増えなかった体重が増え、比例してボールのスピードも上がっていった。高校生の段階で選手たちの限界値を決めつけてしまうことの無意味さを痛感しました。
しかし、この進化は高校以降のステージで野球を続けたからこそ現実のものとなった。高校球児の時点で上のステージを強く意識し、向上心を持ち続けることの大切さを則本から学んだ気がします。
教え子・則本 昂大へのメッセージチームのために何年も続けて二桁勝利を挙げられる息の長い投手として、今後も活躍し続けてほしいと願っています。そのために大事なのは故障をしないこと。157キロというスピードボールを投げられるようになり、投手としてさらなる進化を遂げていることは大変嬉しいのですが、全身を使って投げ込むスタイルだけに、体に大きな負担がかかっていないか、一方では心配になってしまいます。
今はしっかりと体を休め、来季に向けての身体のメンテナンスをしっかりと行ってください。そしてオフには帰省がてら、母校に遊びに来て、元気な顔をぜひ見せてください。楽しみに待っています。
(取材・構成=服部 健太郎)
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