[画像] ヒトラーの人心掌握と演説術、『わが闘争』の誕生秘話 - 盛衰史を振り返る

アドルフ・ヒトラーとナチスにスポットを当てたシリーズ『ヒトラーの帝国』が、15日にドキュメンタリーチャンネル「ディスカバリーチャンネル」で放送される。

同シリーズは、第一次世界大戦後にヒトラーとナチスがドイツ国内で台頭していく様子を追う『ナチス黎明期』(13:00〜14:00)、第二次世界大戦前のドイツにおけるナチスの躍進や独裁政権が築かれるまでを解説する『独裁政権の確立』(14:00〜15:00)、国民の絶対的な支持を得たナチスの戦い方とヒトラー最期の日々に迫る『終焉への道』(15:00〜16:00)の3部構成の「ヒトラー盛衰史」。第二次世界大戦終結から70年を迎え、ここでは彼が秀でたとされる演説術や『わが闘争』秘話などを振り返る。

プロパガンダの天才と称されたヒトラー。映画や宣伝を通して人心を操作していったヨーゼフ・ゲッベルス、恐怖で人々を支配する技術を持ち、大量虐殺を促進したハインリヒ・ヒムラー、貴族的で華美な生活を好んだ軍人のヘルマン・ゲーリングら側近たちの協力を得て、国民の人気を獲得しながら強力な権力を握った。

ヒトラーは、1889年4月20日にオーストリア・ブラウナウで生まれる。両親はオーストリア人。手当たり次第に本を読みあさる熱心な読書家で、頭脳明晰だったが集中することが苦手だったことから、学校での評価はあまり高くなかった。1907年に画家を目指してウィーンに赴くも、造形美術大学の入学試験は不合格。ヒトラーにとっては挫折だったが、後に「ドイツへの愛ゆえ、絵筆を折った」と言い残している。

父が厳格な一方、母は息子に甘く、小遣いを与え続けた。中にはヒトラーを「怠け者」と評する伝記作家もいるが、彼はウィーンで気ままに遊んでいたわけでなく、カフェに通って文化人たちと親交を深めることで、さまざまな着想を得ていく。この時のことをヒトラーは著書『わが闘争』で「あれが私の思想の土台となった」と述べている。

家族の遺産と絵を描いて稼いだ金で経済的な余裕ができたヒトラーは1913年、ドイツ・ミュンヘンに移る。彼の故郷であるオーストリア・ハンガリー帝国は広い領地を有する強国だったが、民主主義の台頭で議会が紛糾。二重国家としての均衡は失われ、両国議会は常に民族間の怒鳴り合いに発展した。ヒトラーはその状況を知って議会を見限り、「強烈な統率力を持つ独裁的な指導者にしか国家の混乱は治められない」と考えるようになった。

その後、ヒトラーはドイツ軍に入隊。極めて優秀な兵士として兵長にまで昇進し、戦死者が多数出る中で生き延びた。戦闘員として戦った期間は短く、最前線で伝令兵として奮闘。鉛の雨をかいくぐる危険な任務だが、戦闘兵より楽だと見られることが多く、統率力も欠けていたことから士官にはなれなかった。仲間からの人望は薄く、「変わり者」と見られていたという。

ドイツは第一次世界大戦で敗戦国となり、ヒトラー自身も完全に打ちのめされた。右翼勢力が唱えたように、敗戦した理由を「悪いのは社会主義者とユダヤ人」と結論付けた。国内で変化と不安が続く中、大勢が軍から去ったが、ヒトラーは残ることを決意。政治思想を啓発し、指導者を育てる教育を軍で受ける。その後、兵士を啓発する講師に任じられ、扇情的な思想教育で著しい成果を上げた。その過程で磨かれたのが、後に彼の武器となる演説術だった。

1919年に結党されたドイツ労働党の調査を命じられたヒトラーは、集会で弁舌の才能を発揮すると同時に過激な反ユダヤ的思想も受け入れ、この調査期間中に政治活動にのめり込んでいく。やがて、巧みな演説により党で重要な役割を担うようになり、プロパガンダの責任者に任じられた。政治活動のスタートは、指導者ではなく「宣伝マン」。ヒトラーは極めて刺激的で扇動的なポスターを作製し、大規模な集会を開いては党員を増やしていった。そして1920年、ヒトラーは訴求力を高めるために党名の変更を決断。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)はこうして誕生した。

翌年、一度は離党しながらも復帰して党首となったヒトラーは、忠実で賢く、残忍な側近を身辺に集めはじめる。彼らを強固に結び付けたのは、敗戦による喪失感、失望、怒り。さらに猛烈なインフレや失業問題などによって国民の政治不信は高まり、ヒトラーの演説は聴衆に啓示を与え続けた。1923年、ヒトラーらナチス党員が参加したドイツ闘争連盟はクーデターを起こすも、わずか半日あまりで鎮圧。このミュンヘン一揆でヒトラーは収監されるも、その獄中で執筆したのが"ナチス必読の書"だった。

それまでは自分の特別な人間だと思っていなかったヒトラーは、収監中に初めて自らを選ばれた存在と認識し、独裁者への道を歩みはじめる。今の立場に至った過程と自分の信念をつづり、その半生を振り返った。もとの原稿に使われていたタイトルは「虚偽 愚鈍 臆病に対する4年半のわが闘争」だったが、出版社から「もっと大衆受けしそうな題名に」と勧められ、『わが闘争』となった。発行部数は瞬く間に何十万部にも達した。

判決は禁固5年だったが、所内では特別待遇を受けた。ほどなく釈放されるも、ヒトラーは演説が禁止されていることを「弾圧」と主張。後に完全に解かれると表舞台に再登場し、まるで人気スターのように大衆を魅了した。演説が解禁された後の議会選挙で、ナチスは議席数を伸ばした。芝居がかった演説は催眠術のように聴衆を引きつけたが、内容的には空疎だったという。

このように「ヒトラー盛衰史」を振り返る今回のシリーズ。『終焉への道』の最後はこのようなナレーションで締めくくられている。

「いつの時代でもナチス風の行動様式に魅力を感じる若者はいるでしょう。ナチスの宣伝は実像ではなく理想像に過ぎません。驚くべき事実です。他国出身の目立たない男が恐るべき野望に駆られてドイツの独裁者になったのです。そして史上最大の戦争と犯罪を引き起こした。戦後70年経った今も歴史的な興味は尽きません。ドイツは再統合されました。マーシャルプランのおかげで西ドイツが奇跡の復興を遂げ、経済的・政治的安定がもたらされたのです。しかし真の奇跡は、ドイツの人々です。自国の野蛮な過去を直視し。歴史の教訓として世界に示してくれました。今も世界では迫害や紛争が絶えません。 しかし、同じ過ちは繰り返してはならないと歴史は訴えます」

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