「退屈なクルマはつくらない」「値引きしない」で営業利益は前期比3倍。世界で走る車のうち、2%にも満たないマツダ車が輝くためには――。ただそれだけを考え、モノづくりも売り方も刷新した。それは、生き残るための大改革だった。

■反骨のDNAがあったから生き残れた

マツダは、世界で初めてロータリーエンジンを実用化させたことで知られる(最初の搭載は1967年)。なぜ、ロータリーの開発に挑戦したかといえば、当時の松田恒次社長が会社の自主独立を守ろうと決断したためだった。

60年代半ばの通商産業省(現在の経済産業省)には、特定産業振興臨時措置法案に代表されるように、自動車業界をトヨタと日産の2社、あるいは3社に再編しようとする動きがあった。資本の自由化から日本に進出してくるビッグスリーから自動車産業を守ろうとする保護主義的な方向に動いたのだ。ダイハツ工業がトヨタ系、富士重が当時は日産系となり、さらに日産によるプリンス自動車工業の実質的な吸収合併(66年)などは、この流れである。

マツダは国の方針に強く反発。再編されずに生き残るためには技術革新を果たすしかないと、次世代エンジンの開発に懸けたのだ。

12年夏、山内孝現会長(当時は社長)は「怒られるでしょうが、ロータリーは反骨精神の表れです。国から言われたことにそのまま従うのでなく、独自にできることがあると考えるのがマツダのDNA。これがあるから、GMやクライスラーは破たんしても、小さな我々でもやっていける。スカイアクティブにしても、他社がEVやHVに向かう中、敢えて内燃機関にこだわったことで開発できたのです」と語っていた。

スカイアクティブにせよ、「モノ造り革新」にせよ、この会社の原点には自主独立を求める“反骨精神”が横たわっているようだ。世の中の流れはともかく、「わが道を行く」考え方であり、モノづくりへの意思である。状況に合わせて対応するのではなく、発信して自ら状況をつくっていくのが、よくも悪くもマツダなのだろう。

ロータリーエンジンは、マツダの最初の“ホームラン”だ。中学の技術家庭科の教科書にも、日本がつくった次世代エンジンとして写真入りで紹介された(70年代前半、筆者はこの教科書で学んだ)。企業規模はともかく、世界で唯一ロータリーエンジン量産化を実現させたマツダの技術力は、世界最高水準だったはずだ。

70年代に入るとマツダは、エネルギーロスが小さいロータリーの搭載車を主力に据える。日本の低公害優遇税制適用第1号はマツダ「ルーチェAP」であり、「低公害なロータリー車」の人気は高まる。ところが73年秋にオイルショックが発生し、ガソリン価格は高騰してしまう。排ガスは少ないものの燃費が悪かったロータリー車は、たちまち在庫の山となる。75年には赤字に転落。最初の経営危機に陥ったマツダは、「AM(オールマツダ)作戦」を断行する。これは技術や生産、総務など内勤社員を全国の販社に出向させて、営業マンとする作戦だった。広島駅ホームでは、連日のように壮行の儀式が行われた。戦後30年が過ぎた頃、「万歳、万歳」の声に送られ、出向者はあたかも出征する兵士のようであったという。

仕事の役割が明確に決まっている欧米企業では、考えられない。個人よりも会社を最優先する当時の日本企業ならではのやり方だが、この作戦を労組も支持する。現実に給料の遅配なども起きていて、マツダは限りなく危うかった。

AM作戦が3年に及ぶ中で、夜訪などの営業活動により技術者たちもエンドユーザーの生の声を聞く機会を得た。出向から戻った彼らが、若者向けにつくりあげたのが、80年6月発売の「赤いファミリア」だ。月によっては「カローラ」の販売を超え、ライバル社のスターレット、パルサー、シビックなど世の中にあったハッチバック車がみな“赤く”塗りつぶされた。「赤いファミリア」を真似てである。ある種の社会現象だったが、記憶と記録に残る2本目のホームランだった。

その一方、経営危機により創業家の社長は降板し、メーンバンクの旧住友銀行(現在の三井住友銀行)が経営再建に乗り出す。住銀主導により、フォードと資本提携したのは「赤いファミリア」発売前の79年11月だった。

その後は、三菱自工、ホンダとともに“3位集団”を形成していく。ところが、2回目の経営危機はバブル崩壊後に訪れる。80年代後半のバブル期に、国内販売を2チャンネルから5チャンネルに増やして「打倒・トヨタ」を目指した。つまり仕掛けたのである。が、バブル経済が崩壊したことで拡大策は裏目になり、94年3月期には経常赤字に転落。96年にはフォードの持ち株比率は33.4%に引き上げられ、フォードから社長が送り込まれる。

01年には大きなリストラを実行し、再び危機を脱していく。03年からはプロパー社長が登板、前述のようにフォードは離れていった。駆け足で見ても、波乱の歴史である。

■難攻不落の技術を生んだ怪物

ロータリーや赤いファミリア以外にも、「4WS(四輪操舵)、フルタイム四駆といったホームランはあった。しかし、いずれも単発で終わってしまったのです。会社の中で組織の横断もなければ、次のヒットにもつながらなかった。現実として、いまはみな消えてしまっているわけで、こうした単発ではダメ。やはり、大切なのはつながりです」と社長の小飼雅道。

商品開発責任者の猿渡健一郎は言う。「10年ほど前から、フォードが離れていくのを不安に感じる部分があった。フォードはブレないけど、日本人はどうしてもブレるから。ところが、03年に井巻久一さんが社長になったとき、フォードの社長時代の02年に始めていた(ブランドメッセージの)“Zoom-Zoom”をやめなかった。このとき、マツダはやっていけると、開発現場の一員として思えた」。

つながり、継続性が見えてきた中、低燃費ガソリンエンジンである「スカイアクティブG」の開発が、先行開発部門の中で立ち上がったのは05年。欧州のCO2規制が強化される見通しとなっていたため、待ったなしの状況だった。

当時はパワートレイン先行開発部長だった人見光夫(現在は執行役員)が「物理の法則に従えば、やれる!」と号令をかけたが、チームの“ノリ”は鈍かった。

というのも、人見が目指すテーマが「高圧縮比エンジン」だったからだ。ガソリンエンジンが世に出て130年。高圧縮比化は、何人をも寄せ付けない技術領域だった。挑戦した技術者は数多かったが、成し遂げた者はいなかった。

圧縮比とは、エンジン内燃室(シリンダー)における、最大容量と最小容量との比率を表す。シリンダー内で上下運動するピストンが、一番上の位置にあるときの容量は最小になり、逆に一番下のときの容量は最大となる。単純に圧縮比が高いほうが、生み出される運動エネルギーは大きくなり、理屈としては出力が向上する。燃費性能は高まり、CO2排出量も削減できる。

一般のガソリンエンジンの圧縮比は10(1:10)程度。これよりも高められないのは、ノッキングが起きるためだった。高温高圧下では混合気が自己着火してしまうのが、ノッキングの原因である。

「本当に人類にとって大切なのは、高効率で低燃費な内燃機関です。内燃機車両のニーズは、新興国で大きくなるから。なのに、HVやEVなど電気を使う車のほうが、世界で大きな優遇を受けている。おかしいと思う」

人見が開発を志した原点にはやはり反骨精神があった。ロータリー以来のマツダDNAでもある。

開発が始まると、人見は自分にもメンバーにも「できない」という言葉を禁じ、ノッキングが発生する要素を一つずつ潰していった。

06年には「モノ造り革新」に組み込まれ、07年には単なる先行開発ではなく具体的な製品開発プロジェクトに昇格する。基礎開発のエンジニアに加え、商品開発技術者も合流。メンバー数は膨らむが、「全員野球を徹底させました。代打でも代走でも、みんなを試合に出場させ、ベンチウオーマーをつくらなかった。特定の選手ばかりを使って補欠が多いと、連帯感も緊張感も失われていくから。一人でもモチベーションが落ちると、チーム力は弱体化します」と人見は言う。

そして人見たちは圧縮比を14.0にまで高めることに成功する。ピストンの頭頂部にくぼみを設け、燃焼しやすい環境を整える新技術を開発したことなどが、ブレークスルーにつながった。

生産技術も動き出していた。「圧縮比14を実現させるため、燃焼室を成型する新しい鋳造方法を開発したのです。冷やし方がポイントでした」と、生産技術出身の小飼は話す。

このように、開発から生産技術へと横への連携ができた、別の表現を使えば一体となれた瞬間だった。従来ならば、生産現場は「できない」、あるいは「公差(出来上がった製品に許される寸法の差)を広げてくれ」と、泣きが入っていた。ところが、「開発なくして生産なし、販売なし、会社もなし」と社内で謳われるほど一体となっていく。

設計の前段階から、「こんな工法がある」「こうしたほうが安い」と、生産技術が開発部隊に提案できていたのである。

「一つの車種開発が終わると、ノウハウを次の車種開発に渡すバトンタッチ式ではなく、今回は開発と生産が最初から一つになって握り合う形ができました。もし、この横のつながりがなければ、ほかにもあった単発の技術の一つとしてスカイアクティブは消えていたでしょう。そして連携の原型は、バブル期の5チャンネル時代にすでにあった」と小飼は話す。

前述のように、国内5チャンネルの販売体制はマツダを経営危機へと導いた。しかし、VWよりも早く、マツダはいくつかの部品をユニットとして組み立てるモジュール生産に、20年以上前から着手していたのだ。多品種少量生産に対応して、5チャンネルに車種を高効率で供給するためだった。

その生産方式を実現させたのが、「課長クラス、部長クラス、役員レベルといった横のつながりでした。階層ごとに一体となっていたのです。よくある縦割りのピラミッド型の会社なら、とてもじゃないができなかった」と小飼。“打倒・トヨタ”を目論んだ作戦は失敗したが、新しい取り組みの経験は目に見えない“資産”を残していたのだ。マツダ反骨の原点であるロータリーエンジンもまた、まだ終わってはいない。昨年末に同社は発電機を搭載して走行距離を延ばしたEVの試作車を公開したが、発電装置としてロータリーエンジンを使っているのだ。小型化が容易なこと、高い静粛性といった特性を生かし、回転運動により高効率にエネルギーをつくり出すロータリーは、動力とは別の発電という新たな役割を見出したのである。

スカイアクティブ技術の到達度について人見は、「まだ半分程度。伸び代は大きい」と笑う。そのうえで「EVは、決して環境に優しい車ではありません。電気をつくるのに石炭を大量に燃やしているから。また、各国が排気量の大きさで車の税金を決めるのもおかしい。結果(車の燃費性能)で決めていただきたい」と、訴えている。

これから、低燃費な内燃機関が求められるのは間違いない。世界の自動車市場は現在よりも25%増えて、17年から20年には1億台を超えるとみられている。増加分の大半は新興国で占められるが、必要なのはガソリン車かディーゼル車だ。日本で人気のHVは、エンジンに加えモーター、電池が載るため、機構は複雑なうえどうしても値段が高くなる。また、エンジンを積まないで電気だけで走行するのは、EVと燃料電池車(FCV)だけ。この2つが、1億台のうち仮に10%を占めても、9000万台にはエンジンが載る。「アクセラ」のHVにしても、スカイアクティブGの搭載により、燃費性能はよくなっている。

ガソリンエンジンの場合、燃焼で得られるエネルギーのうち70%以上は動力としてタイヤに伝わる前に、主に熱として捨てられている。「だからこそ、内燃機関の改善の余地は大きい」(人見)のだ。

■トヨタより、日産より先にマツダ車を

「よう、わからんのう……」。営業領域総括の毛籠(もろ)勝弘常務執行役員が09年に社内でブランド価値について話したとき、社員の反応はいまいちだった。

「正価販売を大切にしていく。値引きはやめよう。お客様が抱く、マツダへのブランドロイヤルティを上げていくことが、我々が成すべきすべてなんだ」「退屈なクルマはつくらない。マツダは得意を伸ばす」。毛籠は「つながり革新」ということで、社内で訴え続けた。

少子高齢化が続き、軽自動車が4割を占める国内市場で、マツダのブランドは少し前までは弱かった。

「CX-5は、欧州に赴任経験があって、クリーンディーゼルを知るお客様に人気です。当店では、輸入車と比較検討されるケースが多い」。こう話すのは、関東マツダ洗足店(大田区上池台)の垣本紀雄店長だ。高級住宅地が近い同店は、マツダの車両デザイナーが店舗を設計し、昨年11月にリニューアルしたばかり。

93年に入社して、三鷹地域で自動車営業を始めた頃、垣本は頻繁に夜訪を重ねた。時には玄関先で順番待ちをし、他社の営業マンと入れ替わりで値引き交渉をすることもあった。しかしいまは「値引きではなく、マツダ車が持つ価値で勝負しています。夜訪を否定はしませんが、いまは店頭での対面販売です」と垣本。

売り方もオシャレになっていて、営業マンはみな研修を受け、技術やデザイン、ブランドと幅広い見識を有している。

「昔は、トヨタさんを見て、日産さんを見て、ホンダさんを見て、ウチに来る方が多かったのですが、いまは一番最初に来ましたと言ってもらえることが多くなりました」

「モノ造り革新」により、新しい価値を創出したマツダ。“一発屋”を返上して、持続的な成長を遂げていけるのか。

小飼は言い切る。「余計なことをやらないことでしょう。会社が持つリソースは限られるので、一点集中でやっていきます。これからも。新興国専用車をつくることはないし、蛇足をやると失敗します。他社と環境技術での協力は増えるでしょうが、資本の提携は考えていません」。

(文中敬称略)

(ジャーナリスト 永井 隆=文 的野弘路=撮影)