安倍政権は最低賃金の引き上げに積極的だ。骨太の方針2019では「より早期に全国加重平均が1000円(時給)になることを目指す」と述べた。だが、大和総研シニアエコノミストの神田慶司氏は「日本の最低賃金は国際的に見て低いとはいえない。無理に引き上げれば、バイト・パートタイマーの大量失職が起きる恐れがある」と指摘する――。

※本稿は大和総研編『世界経済の新常識2020』(日経BP)の一部を再編集したものです。

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安倍首相は最低賃金1000円(全国平均)の早期達成を目標に掲げている。 - 写真=時事通信フォト

■最低賃金引き上げは低所得層の消費を活性化

政府は2010年代半ば以降最低賃金の引き上げを誘導してきた。2016年度から2019年度の最低賃金は、いずれの年も3%程度の引き上げが実施された。さらに、2019年6月に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2019」(骨太の方針2019)では、「より早期に全国加重平均が1000円(時給)になることを目指す」と述べられており、最低賃金のさらなる引き上げに意欲的である。

最低賃金の引き上げは経済にどのような影響を与えるだろうか。家計消費への影響の観点からは、最低賃金水準で働く労働者の収入を直接的に増やすだけでなく、最低賃金に近い水準で働く労働者の昇給を促すため、消費を活性化させる可能性がある。

食費や住居費、光熱費など生活の基盤となる「必需的支出」が支出全体に占める割合は低所得世帯で特に大きく、所得が増加すると消費に回す傾向が強い。最低賃金の引き上げが低所得勤労者世帯の消費を押し上げる効果は大きいと考えられる。

■価格転嫁できなければ従業員を削減も

ただし、企業の立場から見れば、人件費の増加により収益が圧迫される。飲食業や小売業など、労働集約的で最低賃金付近で働く労働者が多い産業ではその影響が特に大きい。このような状況に直面した企業は、(1)従業員の雇用調整、(2)販売価格への転嫁、(3)人件費以外の支出の抑制、(4)労働生産性の向上、といった対応をとることが考えられる。

(1)は、人件費の増加を抑えるために企業が従業員数の削減や労働時間の短縮を行うことを意味する。これにより人件費の増加を抑制することが可能だが、無理に労働力を減らせば、業務の効率性の低下や事業活動の縮小につながりかねない。

(2)は、人件費が増えた分、販売する製品やサービスの価格を引き上げて消費者に負担を転嫁することを指す。しかし、現実に販売価格に転嫁できるかどうかは業種や地域の特性によるだろう。競合他社が多い環境下で販売価格を引き上げることは容易ではない。

(3)のように企業が機械設備や研究開発、海外展開など、生産能力増強や事業拡大に充てる費用を減らす可能性もあるだろう。こうした投資が抑制されれば、企業の成長力や価格競争力を弱めかねない。

(4)の労働生産性は一人1時間(マンアワー)の労働投入が生み出した製品やサービスの価値(付加価値)を指す。最低賃金の引き上げは従業員の平均時給を上昇させるが、同時に労働生産性を高めることができれば、利益への影響を抑えることができる。

労働生産性を高める企業の取り組みとしては、OJTやOFF‐JTを通じた従業員の業務遂行能力の向上、設備投資による資本装備率(従業員1人当たりの資本ストック水準)の引き上げ、イノベーションやブランディングによる自社製品・サービスの価値向上などが挙げられる。

このように、最低賃金の引き上げは消費活性化やデフレ脱却、企業の生産性向上に資すると期待されているものの、企業が取る対応策の内容によっては、こうした効果が発現しない可能性がある。

例えば、企業が雇用や労働時間を削減すれば、労働者(すなわち消費者)が受け取る給与の総額が増えるとは限らない。また、生産性向上は企業が日ごろから取り組んでいる重要課題であり、それを最低賃金の引き上げのみで実現できるか否かは判然としない。

最低賃金の引き上げによる経済への影響は、きわめて実証的なテーマであり、これまでに数多くの先行研究が存在する。そこで以下では、雇用や生産性への影響に焦点を当てた分析を紹介する。

■経済理論で最低賃金引き上げの影響を分析する

米国では、最低賃金の雇用への影響を中心に過去数十年にわたり研究が蓄積されてきた。初期の研究では、最低賃金の引き上げは雇用にマイナスの影響を与えるとの考えがコンセンサスであった。サーベイ論文であるBrown et al.(1982)(※1)は、1%の最低賃金の引き上げが10代の雇用者数に与える影響は▲0.3〜▲0.1%と推定されるとした。

しかし、隣接する2つの州のファーストフード店を対象とした電話調査の結果を分析したCard and Krueger(1994)(※2)は、最低賃金の引き上げに雇用へのプラスの効果があったことを報告した。この分析では、1992年のニュージャージー州における最低賃金の引き上げの前後で同州(実験群)の雇用状況がどう変化したのかを、同時期に最低賃金が変化しなかったペンシルバニア州(対称群)と比較する「差分の差分析」という手法が用いられている。

すなわち、ニュージャージー州における最低賃金引き上げ前後の雇用者数の変化幅が、ペンシルバニア州における同時期の雇用者数の変化幅より大きければ、実験群であるニュージャージー州の最低賃金政策の効果が表れているとみなすものだ。実際に分析すると、ニュージャージー州の雇用者数の増加幅はペンシルバニア州よりも大きかったのである。従来のコンセンサスとは異なる結果が示されたことから、最低賃金引き上げの雇用への影響についての論争が繰り広げられるようになった。

経済理論を用いて整理すると、一般的に想定されている「競争的労働市場モデル」は、最低賃金引き上げが雇用に負の影響をもたらすことを示唆している。

このモデルでは、企業は労働市場で需給が一致する賃金水準のもとで雇用量を決定する。このとき、企業による最適な雇用量の判断基準は、新たに1人雇うことで追加的に得られる収入(雇用の追加的価値)と賃金(雇用コスト)が釣り合うかどうかである。

雇用の追加的価値が賃金を上回る(下回る)と利益が増加(減少)するため、企業は雇用の追加的価値と賃金が等しくなるように雇用量を調整し、利益を最大化させる。そのため、労働需給が均衡する賃金水準を上回る賃金の引き上げは企業の労働需要を減らす一方、人々の労働意欲を高めて労働供給を増やすため、供給超過が生じて失業が発生する。

しかし上述のCard and Krueger(1994)が競争的労働市場モデルに反する分析結果を示したことを受け、労働市場モデルの再検討が行われた。すなわち、賃金決定に際して企業が労働者よりも優位にあるという「買い手独占的労働市場モデル」を想定して、最低賃金引き上げの効果が検証されるようになった。

(※1) Brown, Charles, Curtis Gilroy and Andrew Kohen(1982)“The Effect of the Minimum Wage on Employment and Unemployment,” Journal of Economic Literature, Vol. 20, No. 2 (June), pp. 487‐528.
(※2)Card, David and Alan B. Krueger(1994)“Minimum Wages and Employment: A Case Study of the Fast‐Food Industry in New Jersey and Pennsylvania,” American Economic Review, Vol. 84, No. 4(September), pp. 772‐793.

買い手独占的な労働市場とは、例えば労働者が居住地の近くでしか働けず、居住地の周りに企業がほとんどない状況が当てはまる。このような環境下で企業は労働者よりも賃金交渉で優位な立場にあるため、競争的労働市場で決まる賃金水準を下回る水準に賃金を設定できる。そのため、最低賃金が多少上昇しても、割安な賃金で従業員を雇っている企業は利益が増加する限り人件費の増加を許容し、雇用を増加させると考えられる。

■最低賃金の引き上げは雇用に負の影響とする研究が多い

もっとも、Neumark and Wascher(2006/2007)(※3)はサーベイした102の研究のうち、最低賃金引き上げと雇用について正の関係を示しているのは八つのみであり、最低賃金引き上げは雇用に負の影響をもたらすという完全競争労働市場モデルが現実の経済を近似できると主張した。

また、より最近の研究であるWolfson and Belman(2016)(※4)でも、700以上の研究を用いたメタ分析により、1%の最低賃金引き上げが10代の雇用へ与える影響は▲0.12〜▲0.05%と推定されるとしている。このように、いまだコンセンサスはないものの、サーベイ論文を見る限り、最低賃金が雇用に負の影響を与えるとする研究が多い。

■日本の研究で雇用や生産性への影響は不明確

ひるがえって日本では、都道府県で最低賃金の水準が異なることから、最低賃金の地域差に着目した研究がいくつか存在する。最低賃金と雇用の関係を見た研究の中で、Kawaguchi and Mori(2009)(※5)、川口・森(2013)(※6)、Kambayashi et al.(2013)(※7)などでは、最低賃金引き上げによる10代の男女や中年女性の雇用の減少を確認している。Akesaka et al.(2017)(※8)は、10代の男性の就業率を低下させ、50歳以上の給与所得者の自営業への転換を促すことを確認した。また、幅広い年代で労働時間を減少させるとしている。

一方、雇用に影響を与えないという立場には橘木・浦川(2006)(※9)やHiguchi(2003)(※10)があり、やはり見解は一致していない。また、生産性に関する分析は、一人当たり労働生産性への影響は確認できないとする森川(2019)のみであり、研究の蓄積は進んでいない。

(※3)Neumark, David and William Wascher(2006/2007)“Minimum Wages and Employment: A Review of Evidence from the New Minimum Wage Research,” NBER Working Paper No. 12663, November.
(※4)Wolfson, Paul and Dale Belman(2016)“15 Years of Research on U.S. Employment and the Minimum Wage,” Tuck School of Business Working Paper No. 2705499.
(※5)Kawaguchi, Daiji and Yuko Mori(2009)“Is Minimum Wage an Effective Anti‐poverty Policy in Japan?” Pacific Economic Review, Vol. 14, No. 4, pp. 532‐554.
(※6)川口 大司・森 悠子(2013)「最低賃金と若年雇用:2007 年最低賃金法改正の影響」RIETI Discussion Paper Series 13‐J‐009.
(※7)Kambayashi, Ryo, Daiji Kawaguchi, and Ken Yamada(2013)“Minimum Wage in a Deflationary Economy: The Japanese Experience, 1994‐2003,” Labour Economics, Vol. 24, October, pp. 264‐276.
(※8)Akesaka, Mika, Yukiko Ito and Fumio Ohtake(2017)“Impact of Change in Minimum Wage on Employment and Poverty in Japan,” ISER Discussion Paper 0999, Institute of Social and Economic Research, Osaka University.[1]
(※9)橘木 俊詔・浦川 邦夫 (2006)『日本の貧困研究』東京大学出版会
(※10)Higuchi, Yoshio(2013)“The Dynamics of Poverty and the Promotion of Transition from Non Regular to Regular Employment in Japan: Economic Effects of Minimum Wage Revision and Job Training Support,” Japanese Economic Review, Vol. 64, Issue 2, pp. 147‐200, 2013
(※11)森川 正之(2019)「最低賃金と生産性」RIETI Policy Discussion Paper 19‐P‐012

■日本では最低賃金の引き上げがパートタイマーの就業を抑制

最低賃金の引き上げによってパートタイム労働者の平均時給が上昇すると、日本に限っては、短時間労働に従事する女性配偶者を中心に就業時間の抑制が行われる可能性がある。

図表は、パートタイム労働者の年収、労働時間、時給の推移を示したものである。パートタイム労働者は時給が上昇すると労働時間が減少するという傾向が顕著に見られ、その結果、年収はわずかな増加にとどまっている。

多くの企業で配偶者(家族)手当の支給基準額となっている「103万円の壁」や、社会保険加入の基準額である「130万円の壁」を意識して、パートタイム労働者が就業時間を調整していると考えられる。総務省「平成29年就業構造基本調査」によると、収入を一定の金額に抑えるために就業時間、日数の調整を行っているパート及びアルバイトは496万人存在する。その多くは女性配偶者であり、年収50〜149万円に分布している。

最低賃金で働く短時間労働者の多くは主婦や学生であり、貧困層ではない。川口・森(2009)(※12)によると最低賃金労働者のうち世帯主は30%程度にとどまり、約半数は年間世帯収入500万円以上の非世帯主であるという。また、内閣府「平成29年度 年次経済財政報告」では、最低賃金1%引き上げによるパートタイム労働者の賃金上昇率の中位値は0.4%程度と推計されている。こうしたことから、最低賃金の引き上げはパート・アルバイトの賃金上昇を通じて、結果的に短時間労働者の就業調整を促している可能性がある。

(※12)川口 大司・森 悠子(2009)「最低賃金労働者の属性と最低賃金引き上げの雇用への影響」日本労働研究雑誌, No. 593, pp. 41‐54

■景気悪化局面での最低賃金引き上げは雇用調整を招く恐れ

冒頭で述べたように、最低賃金は2016年度から2019年度まで毎年3%程度の引き上げが実施された。一般労働者やパートタイム労働者の賃金上昇率を上回るペースだったものの、雇用・所得環境には明確な悪影響が見られなかった。これは、企業収益が過去最高水準を更新するなど良好な経済環境の中で労働需要が強かったことや、人口減少・高齢化の下で労働供給が増加しにくくなったことから、幅広い産業で人手不足感が強まったというマクロ要因が大きいと考えられる。

大和総研編『世界経済の新常識2020』(日経BP)

だが、こうした状況は変わりつつある。パートタイム労働者の有効求人倍率は2018年初めに頭打ちとなっており、正社員よりも早いタイミングで労働需給のタイト化が一服した。さらに、有効求人倍率に先行する新規求人倍率のうち、企業の労働需要を表す新規求人数を産業別に見ると、「小売業」や「宿泊業,飲食サービス業」、「運輸業,郵便業」などでパートタイムの求人数が減少している。景気の減速感が強まる中で最低賃金を大幅に引き上げていけば、いずれ事業活動の縮小や労働需要の減少など従来見られなかった悪影響が目立ちかねない。

人口減少・高齢化により働き手の希少性が高まる一方、グローバル化やAIなどの技術進歩は賃金格差を一層拡大させる可能性がある。社会の支え手の拡大・強化や、格差是正を図るという「社会政策」の観点からの最低賃金の引き上げは、従来以上に重要性を増すだろう。

しかしながら、「経済政策」としての有効性が現時点で不明確であることは先述した通りである。加えて、日本の最低賃金の水準は国際的に見て低くなく、水準を理由に最低賃金を引き上げる必要性は小さい。確かに、米ドル換算やフルタイム労働者の平均賃金対比の最低賃金は主要先進国の中で低めに位置しているものの、各国の経済構造や就業形態、賃金分布などの違いが十分に反映されていない。こうした影響を受けにくい1人当たり家計消費額対比で見れば、2018、19年度の最低賃金引き上げ分も考慮すると、日本はOECD加盟国の平均値を上回っている可能性が高い。

各企業の実情を考慮せず、低賃金労働者の賃上げを一律的に企業に強制することになる最低賃金の引き上げは、経済政策としては「劇薬」といえる。経済全体にとってプラスの効果をもたらす適切な最低賃金の引き上げ率が分からない以上、雇用の減少や倒産といった副作用に十分に注意しつつ、慎重に処方することが望ましい。2020年度も骨太の方針に沿って最低賃金の引き上げが検討されるとみられるが、これまでの「3%程度」を議論の土台とせずに、経済実態に即した水準を目指すべきだ。

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神田 慶司(かんだ・けいじ)
大和総研シニアエコノミスト
2004年一橋大学経済学部卒業後、大和総研入社。内閣府出向、政策調査部など経て、2019年より経済調査部日本経済調査課長。専門は日本経済、財政・社会保障で、著書は『明解 日本の財政入門』(金融財政事情研究会、共著)など。2016年より参議院 企画調整室 客員調査員を務める。
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(大和総研シニアエコノミスト 神田 慶司)