恩師は、こみ上げる感情をこらえていた。言葉を発しては下を向き、唇を噛みしめ、身体は震えていた。かつての教え子であり「息子」と呼んでいる森粼浩司の現役引退について語るミハイロ・ペトロヴィッチは、自分をコントロールすることに必死だったように見えた。そうしなければ、コメントを発することすら、できなかっただろう。
 
「浩司は、私が指導してきたたくさんの選手の中でも、飛び抜けたクオリティとキャラクターを持っている。戦術理解力が高く、私の要求をすぐに実践できるだけのスキルを持っていた。そして、浩司のプレーが見本となって他の選手たちにも浸透していく。そういう意味でも私や選手たちを助けてくれた存在だった。
 そういう浩司もミスはする。だがそのミスのほとんどは、素晴らしいアイデアを実現しようとする過程のもの。彼は、ミスすら質が高い。ミスすら、美しい」
 
 2006年6月、ペトロヴィッチは広島の監督として契約をかわし、来日した。開幕から10試合連続勝利なし、降格の危機にあったチームを救うためだ。
 
 当時、日本ではまったくの無名だった「ミシャ」は、最初のトレーニングで広島の特質をズバリと指摘する。
 
「技術は素晴らしい。だが、問題は走っていないことだ」
 
 運動量の少なさだけでなく、走る質のことも含めての課題をどう解決するか。ペトロヴィッチは森粼浩司というタレントに注目する。柏木陽介が「浦和に移籍した後も含め、あれほど上手い選手は見たことがない」と称賛する稀代のテクニシャンは当時、攻撃で凄まじい切れ味を見せつけていながら守備の課題を指摘され、ベンチスタートに甘んじていた。
 
 少年の頃はただ楽しかっただけのサッカーだったが、プロ入り後は度重なるケガ・手術、そして彼のサッカー人生に暗い影を落とし続けたオーバートレーニング症候群という重大な疾病もあり、「プロサッカーは苦しい」としか感じられていなかった。そうした重苦しさをペトロヴィッチは振り払った。
 
「浩司、サッカーは楽しいぞ」
 
 このシンプルな言葉がテクニシャンの心を動かした。「楽しめ」とはおそらく、誰でも言える。だが、1センチのパスのズレが許せないほど、サッカーに関してし「完全主義者」である浩司は、楽しめという言葉を素直に受け取れないでいた。なのに、オーストリアからやってきたサッカーの芸術家が口にしたその言葉が、悔しい状況にあった7番の心に、素直に落ちた。
 
「楽しめばいいんだ。そう考えればいいんだ」
 久しぶりに気持ちが沸き立ったテクニシャンは、その後に待っていたクラブ史上に残る猛烈な練習の先頭に立って走った。彼が走れば、後輩たちもついていく。指揮官の求める「考えて走る」サッカーが身についた広島はその年、奇跡ともいえる残留を果たした。
 
 翌年、熟成が足らなかったチームは守備が崩壊し、J2降格の憂き目に遭ってしまう。だが、ペトロヴィッチ監督の手腕を信じたクラブが指揮官の残留を決断すると、08年に「革命」が起きるのだ。
 
 これまで誰も見たことのない戦術を駆使し、ダイナミックかつテクニカル、圧巻のコンビネーションを見せつけた広島はJ2を圧倒。勝点100、得点99、得失点差+64という圧巻の戦績で、J1に昇格した。
 
「この年と次の2009年、この時の広島が見せたサッカーのクオリティは、世界的にも類を見ない。私の監督としてのキャリアの中でも最も美しいサッカーを表現できた。だからこそ、私は思う。09年、浩司とカズ(森粼和幸)のコンディションが万全だったら、2012年を待たずして広島は優勝できたのではないか」