中国のニュースサイト「瓜遊控」は17日、「日本人はなぜ、透明な雨傘を好むのか?」と題する記事を紹介した。同記事は、ビニール傘を開発したことで知られるホワイトローズ(本社・東京都台東区)9代目社長の須藤三男氏が、さまざまな困難に直面しても工夫と努力で乗り越えた「半生記」であり、日本人が生み出したビニール傘が世界に受け入れられるまでの紆余曲折の「サクセス・ストーリー」だ。
記事はまず、ホワイトローズについて、今の社名は洋風だが、創業は1721年で、雨具製造の専門業者になったのは1825年と「悠久の歴史を持つ会社」と紹介。
次いで、第二次世界大戦期には須藤三男氏がすでに社長だったが、従軍させられ、敗戦後は酷寒のシベリアで奴隷的な強制労働に従事させられたことを伝えた。
中国では、旧日本軍兵は徴兵により従軍させられた場合でも、悪逆非道を尽くした極悪人のようにみなされる場合が多いが、記事は須藤氏の従軍については事実を並べただけで、むしろ「奴隷的な強制労働」、「1949年になりやっと釈放されて戻ってきたが、社長がずっと不在だったため、会社は業績不振で破産直前の状態だった」と、同情的にあつかった。
記事は次に、「当時の傘は布製で、濡れた際の色落ちが問題だった。衣服に傘の色が移ってしまうこともあった」と紹介。さらに、商売を立て直すために新機軸がほしいと懸命に考え続けていた須藤氏の頭に、米軍が使っていたビニール製のテーブルクロスで傘袋を作るとという「霊感」がひらめいたと記した。
ビニール製の傘袋は大ヒット商品になった。記事は「理屈から言えば、物語はここでハッピーエンドになるはずだった」、「しかし、現実と理想は違っていた」と、須藤氏は新たな困難、しかも未曾有の困難に直面したと続けた。
原因はナイロン傘の登場だったという。ホワイトローズ社が手掛けた傘袋は必要性が乏しくなり、売上は減少をしていった。
困り果てた須藤氏が、再びひらめいた。「それならば、傘袋と同じ材料、ビニールを使って雨傘を作ろう」ということだった。1955年のことだ。世界初のビニール傘が誕生した。それまでにない傘で、消費者に覚えてもらう効果もあるはずだった。
記事は再び「理屈から言えば、物語はここでハッピーエンドになるはずだった」、「しかし、現実と理想は違っていた」と紹介。ビニール傘は、布傘メーカーのさまざまな抵抗を受け、百貨店も納品を受け付けてくれなかった。在庫の山ができた。
しかし須藤氏はあきらめなかった。東京の各所の商店街に足を運び、傘を扱う商店の店主と直談判した。頼み込んでビニール傘を置いてもらった。そうして、なんとか会社運営を続けた。
幸運は、思いがけない形でやってきた。1964年の東京五輪開催時に、観光目的で訪れた米国人の雨傘取り扱い業者の目に、ホワイトローズのビニール傘が止まった。米国人業者は製造元のホワイトローズを探し、米国への輸入を申し出た。
輸入が決まったのは「透明ビニール傘」だった。ビニール傘は日本では売れていなかったが「先に米国に進軍。そして米国では品切れになるほど売れた。ホワイトローズは一挙に成功した」という。
記事は、「王子はついに、ガラスの靴を履いたシンデレラを見つけた」と表現した。王子が「米国人業者」を指すのか、「幸運そのもの」を指すのかは不明だが、「シンデレラ」がホワイトローズあるいは須藤氏を指すのは明らかだ。「大きな価値を持ちながら評価されなかった存在が、急に認められることになった」として、ホワイトローズと須藤氏の成功を祝福する書き方だ。
記事はさらに、1980年ごろ、日本の議員が雨天の屋外で演説する際には透明ビニール傘がよいと言い出したと紹介。黒い傘では厳(いか)めしすぎ、議員の表情も見えにくいので、聴衆に親しめる印象を持ってもらうには、透明な傘が都合よいという。
記事はまず、ホワイトローズについて、今の社名は洋風だが、創業は1721年で、雨具製造の専門業者になったのは1825年と「悠久の歴史を持つ会社」と紹介。
次いで、第二次世界大戦期には須藤三男氏がすでに社長だったが、従軍させられ、敗戦後は酷寒のシベリアで奴隷的な強制労働に従事させられたことを伝えた。
中国では、旧日本軍兵は徴兵により従軍させられた場合でも、悪逆非道を尽くした極悪人のようにみなされる場合が多いが、記事は須藤氏の従軍については事実を並べただけで、むしろ「奴隷的な強制労働」、「1949年になりやっと釈放されて戻ってきたが、社長がずっと不在だったため、会社は業績不振で破産直前の状態だった」と、同情的にあつかった。
記事は次に、「当時の傘は布製で、濡れた際の色落ちが問題だった。衣服に傘の色が移ってしまうこともあった」と紹介。さらに、商売を立て直すために新機軸がほしいと懸命に考え続けていた須藤氏の頭に、米軍が使っていたビニール製のテーブルクロスで傘袋を作るとという「霊感」がひらめいたと記した。
ビニール製の傘袋は大ヒット商品になった。記事は「理屈から言えば、物語はここでハッピーエンドになるはずだった」、「しかし、現実と理想は違っていた」と、須藤氏は新たな困難、しかも未曾有の困難に直面したと続けた。
原因はナイロン傘の登場だったという。ホワイトローズ社が手掛けた傘袋は必要性が乏しくなり、売上は減少をしていった。
困り果てた須藤氏が、再びひらめいた。「それならば、傘袋と同じ材料、ビニールを使って雨傘を作ろう」ということだった。1955年のことだ。世界初のビニール傘が誕生した。それまでにない傘で、消費者に覚えてもらう効果もあるはずだった。
記事は再び「理屈から言えば、物語はここでハッピーエンドになるはずだった」、「しかし、現実と理想は違っていた」と紹介。ビニール傘は、布傘メーカーのさまざまな抵抗を受け、百貨店も納品を受け付けてくれなかった。在庫の山ができた。
しかし須藤氏はあきらめなかった。東京の各所の商店街に足を運び、傘を扱う商店の店主と直談判した。頼み込んでビニール傘を置いてもらった。そうして、なんとか会社運営を続けた。
幸運は、思いがけない形でやってきた。1964年の東京五輪開催時に、観光目的で訪れた米国人の雨傘取り扱い業者の目に、ホワイトローズのビニール傘が止まった。米国人業者は製造元のホワイトローズを探し、米国への輸入を申し出た。
輸入が決まったのは「透明ビニール傘」だった。ビニール傘は日本では売れていなかったが「先に米国に進軍。そして米国では品切れになるほど売れた。ホワイトローズは一挙に成功した」という。
記事は、「王子はついに、ガラスの靴を履いたシンデレラを見つけた」と表現した。王子が「米国人業者」を指すのか、「幸運そのもの」を指すのかは不明だが、「シンデレラ」がホワイトローズあるいは須藤氏を指すのは明らかだ。「大きな価値を持ちながら評価されなかった存在が、急に認められることになった」として、ホワイトローズと須藤氏の成功を祝福する書き方だ。
記事はさらに、1980年ごろ、日本の議員が雨天の屋外で演説する際には透明ビニール傘がよいと言い出したと紹介。黒い傘では厳(いか)めしすぎ、議員の表情も見えにくいので、聴衆に親しめる印象を持ってもらうには、透明な傘が都合よいという。
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