11月27日、自民党の参議院議員・猪口邦子氏(72)の自宅が火災に見舞われ、国際政治学者で夫の猪口孝氏(80)と長女(33)が焼死した。孝氏は現代政治学の第一人者として知られ、日本国際政治学会の理事長も務めた。邦子氏も元々は国際政治学の学者だった。学者夫婦の軌跡を辿る。

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 火災は東京都文京区小石川の6階建てマンションの最上階で発生した。そこは猪口家が暮らしていた約150平米のペントハウスだった。なかなか鎮火できなかったのは、消防車が入りにくい場所であったことに加え、膨大な蔵書が燃え方を激しくさせたのではないかと報じたメディアもある。孝氏は著書の中で「学生の間に2トンの本を読もう」 という言葉も残していた。

猪口邦子参院議員

「確かに蔵書は多かった」と振り返るのは、孝氏と一緒に研究を行ったこともある日本大学名誉教授の岩井奉信氏だ。

「東京大学の東洋文化研究所の教授をされていたとき、研究室を確か4つほど持たれていたのですが、そのうちの3つが書庫になっていました。とにかくもの凄い量で、図書館みたいな感じでした。その蔵書うちの一部を、ご自宅に持っていかれたんだと思います」

 日頃から「趣味は勉強」と言っていたという。

「『政治学なんて趣味なんだから』とも言っていましたね。一方で、英語で書いた本を海外で出版されていたほどですから、語学には非常に堪能な方でした。天才的なところがあって、現地の人が話している姿をずっと見ていると、ひと月ぐらいで言葉がわかってしまうとも仰っていました。『ずっと見ていると、何となくわかるようになってくるんだよ』と。不思議でしたね」

 孝氏が手がけた叢書「シリーズ国際関係論」(東京大学出版会)の第1巻を執筆した東京外国語大学大学院教授の篠田英朗氏は言う。

「先生は家でずっと本を読んでいる。一方、奥様は外を飛び回っていらっしゃる。そんな対照的なお二人でした。二人とも学者上がりだから同じと思われるかもしれませんが、そうじゃない。凸凹みたいに違う形をパズルで当てはめて、それで一組の夫婦、家庭の形態を作っていらっしゃったという印象が強いんです」

 そんな二人が出会ったのは1976年のことだった。2007年に猪口邦子氏が上梓した「くにこism」(西村書店)にはこうある。

いきなりプロポーズ

《猪口孝と出会ったのは、私が上智大学の院生のころ。留学が決まって、あと三カ月で日本を離れようかというときだ。軍縮研究のゼミの教授が「とてもお似合いだから、会ってみるといいと思うよ」と紹介してくださった。》

 この少し前、孝氏はマサチューセッツ工科大学大学院で政治学の博士号を取得し、帰国して上智大学の助教授を務めていた。

《そして、まだまともにデートもしたことがないというのに、孝はある日一緒にお茶を飲もうと喫茶店に誘うと、「結婚してほしい」とプロポーズしてきた。直球だった。(中略)私もなぜか「はい」と即答して、結婚は決まりとなった。》

 3カ月後にはエール大学への留学が決まっていたが、留学は先延ばしにし、結婚を優先しようと考えた。

《私がその気持ちを伝えると、彼は「学問の世界はそう甘くない。今回を逃したら、エール大学に留学する機会は二度と来ないだろう。いま行くか行かないか、その選択だけだ」と言う。(中略)すでに学者として人生の勝負をしてきた人の考えと迫力はすごかった。「それなら、留学して、帰ってきてから結婚しよう」と、二人で一応の結論に達した。》

 ところが、デートを重ねるうちに孝氏の考えが変わる。

妻の支え

《結婚するのは早いほうがいい、結婚してから留学した方が精神的にも安定するのではないか、そう孝に説得され、私たちはそれから一カ月後には結婚することになった。》

 留学までの短い新婚生活は、孝氏が暮らしていた杉並の1DKだった。留学から帰国してからは、孝氏が通う東大・本郷キャンパスの隣にある2LDKのマンションに引っ越した。学問漬けになるため、できるだけ大学のそばに住みたいという希望からだった。20年近く住んだというマンションはそれほど広くはなかったが、孝氏を学者として正当に評価してもらうため、邦子氏が考えたのが自宅での夕食会だった。

《当時、日本に来る研究者は少なかったが、滞日した学者を自宅に招くことで、学術的なサロンの場を提供していくという考えである。ときには編集者や日本の研究者仲間も来てくれた。(中略)日本では、このようなパーティを主催するという伝統がないから、研究者達は我が家に招かれたことが深く印象に残るようで、孝が欧米に行ったときには逆に自宅に招いてもらい親しく交流させていただくようなこともあった。実際、猪口孝という一人の学者を認識してもらう格好の機会になったと自負している。》

 なんだか内助の功 で名高い山内一豊の妻のようだが、この夫婦、妻が一方的に夫を支えていたわけではなかった。

「全部断れ」

《孝を大成させたいという思いは強かったが、もちろん自分自身の研究を軽んじていたわけではない。(中略)いくつかの論文が一つにまとまって、『ポスト覇権システムと日本の選択』(筑摩書房)が出版された。これが私にとっては、邦文では処女出版となった。留学から帰って五年後、一九八七年のことである。》

 この本が評判を呼び、テレビや新聞、雑誌などからインタビューの話が来るようになる。

《私は時代の寵児になりつつあった。これまでまったく無名で、地道に学問を追究してきた自分に突然光が当たりはじめたのだ。突然花開いたような、急にセレブになったような、うきうきとしたときめきがあった。》

 だが、そこに待ったをかけたのが孝氏だった。

《孝は「依頼を全部断れ」と強い調子で忠告した。なぜそんな過酷なことを言うのかと、私ははじめ反発した。(中略)「あなたはまだ一冊も書き下ろしていないではないか。学術書を本気で書き下ろすべきだ。そのためにはメディアに振り回されているヒマはないはずだ」というのが彼の主張だった。》

 確かに厳しいように思われる。だが、同時に孝氏は、自信が編集を務める現代政治学叢書(東京大学出版会)のなかの「戦争と平和」を担当してみないかと勧めた。

夫の支え

《これは大変なことになると全身が震える思いだった。(中略)私の人生を左右するほど激しく詰め寄っただけに、孝も私にこの本を書き上げさせる責任を感じたようだった。書き上げる最後の半年の間、彼はあらゆることにサポートを惜しまなかった。わたしの食事の管理もすべてやってくれた。その間、私が夕食をつくるということは一度もなかったのではないだろうか。(中略)電話にもすべて彼が出て、マスコミからかかる私への依頼については、「猪口邦子はいま忙しい」と言って片っ端から断っていった。私が電話を受けていたら断りにくかっただろうことを、彼は本当にためらわず、ある種殺気立って断っていく。》

 その甲斐あって「戦争と平和」は女性として初めて吉野作造賞(2000年以降は読売・吉野作造賞)を受賞する。未だ女性の受賞者は彼女のみだ。

 そして邦子氏は2005年、時の小泉純一郎首相から要請を受け、衆院選に立候補する。悩みに悩んだ上で彼女は出馬を決意し、孝氏に相談した。

《自分の気持ちを伝えると、孝は「邦子がそうしたいと望むなら、がんばりなさい」といってくれた。その人間が考え抜いて結論を出したことなら応援するという、いつも変わらぬ孝の愛情がそこにはあった。》

 前出の篠田氏が猪口夫妻を振り返る。

「孝先生はすごく明るくてお喋りで社交的なんですけど、やっぱり学級肌なんですよ。喋る内容が学者で、アイドルの話なんて絶対にしませんでした。邦子先生は『うちに夫は〜』なんて冗談めいて 言うこともありましたけど、孝先生は邦子先生のことを冗談の題材にすることもありませんでした。先生からしてみると、年齢の差以上に邦子先生に気を遣っていたというか、愛おしんでいましたね。やっぱり自分が支える、守る、引っ張るという感じ。もちろん『俺についてこい』みたいなことではなく、そう見えないようにサポートしていたように思います」

デイリー新潮編集部