赤ワインや白トリュフの生産地としても世界的に知られるピエモンテ州ランゲ地方ポッレンツォにある食科学大学=Università di Scienze Gastronomiche di Pollenzo。3年間の学士号コース、2024年9月〜2025年6月までの授業料は1万5500ユーロ(約248万円)。ただし教材費や研修旅行費も含む(撮影:HIROYA KIZAWA)

世界のビッグシェフたちのランチが学食で食べられる、そんなうらやましくも驚くべき大学がある。北イタリアはピエモンテ州ポッレンツォという小さな田舎町にある「食科学大学=ウニヴェルシタ・シェンツェ・ガストロノミケ」だ。

「アカデミックテーブル」という学生食堂

“食”とつくことから料理人になるための学校と勘違いされることが多いが、実際は食文化、栄養学、農業、環境問題、そして食マネージメントや食ビジネス、食品科学などなどを学ぶ専門大学として2004年に設立された。世界40カ国以上から集まった学生たちが将来の食糧生産システムに関する世界規模のビジョンを身につけ、世界の食企業はもちろん国連やNPOに巣立っていく。

そんな「食科学大学」の学生食堂は「アカデミックテーブル」と名付けられ、ただお腹をいっぱいにして栄養を満たすためだけではなく、授業で学んだことを実際に見て、学ぶ場として存在する。


2014年、ミシュラン1つ星で、世界の人気料理番組「マスターシェフ・イタリア」でも活躍したスターシェフのカルロ・クラッコ自らサービスする姿に、興奮気味の学生たち(写真:Marcello Marengo -Archivio UNISG)

【画像】有名料理人マッシモ・ボットゥーラ、壁一面に飾られたシェフたちの写真、カルロ・クラッコシェフの「黄卵のフライ」、「京都吉兆」の徳岡邦夫総料理長とスタッフが作ったランチ

たとえば料理に使われる野菜類は、大学構内にある畑で学生たち自ら栽培し、農業におけるさまざまな問題点や生産サイクルを実体験する。食料廃棄をできるだけ減らすための工夫、動物性タンパク質の摂取を減らし代替プロテインを使った料理やメニューをどのように取り入れるのかなど、食をめぐる社会問題に実際に取り組み、学ぶ現場なのだ。

スローフードとは「おいしく、きれいで、正しく」

「京都吉兆」が、その食科学大学でランチを作るという話を聞いたのは、今年の春のことだった。日本食ブームが過熱し日本料理店が乱立、日本酒の輸入量も激増しているイタリアだが、実際に食べられるものは本物の日本料理とはかけ離れたものがほとんど。そんなイタリアで吉兆が料理を作り、食の若きエリートたちに食べてもらう。本物の日本文化を体感してもらい、未来へつなげる。そんな企画だった。

今年で創立20年を迎える「食科学大学」の設立を主導したのは、ピエモンテ州ブラに本拠地を置くスローフード協会の創立者カルロ・ペトリーニ氏だ。食科学大学の学長でもあるペトリーニ氏とは、食の安全や食文化に興味を持つ人であれば、イタリア人に限らず神様のように憧れる存在だ。


イタリア・モデナ出身の料理人マッシモ・ボットゥーラ(右)と学長のカルロ・ペトリーニ(左)。「パルメザンチーズのクリームを添えた卵料理」「アスパラガスとベーコンのチップス」「焦がしジャガイモでとったブイヨンとパッサテッリ(硬くなったパンで作るパスタ料理)」などを提供し、高価な食材がなくても、余剰食材だけで、おいしい料理を作れることを示した(写真:Marcello Marengo -Archivio UNISG)

ローマ法皇からヴァチカンに招聘され、環境問題対策についてアドバイスを求められた唯一の一般人でもあるというすごい人なのだが、日本ではペトリーニ氏はもちろん、そもそもスローフード協会についてあまりよく知られていない。「伝統グルメ料理をゆっくり食べる=スロー」と思われがちだが、本当のスローフードの意味は「おいしく、きれいで、正しく」。

「おいしい」は言わずもがなだが、各個人が持つ文化的背景によっておいしさはさまざまであるという事実を受け入れ、尊重すること、そして単に味だけでなく、身体にとってもおいしいものかどうかを考え、追求するということ。「きれい」とは季節外れの野菜や果物を、遠い外国から運ぶなどして環境を汚さないものであること。そして「正しく」とは搾取や強制労働などのない正しい生産方法であること、という意味だ。

1986年にブラで設立されて以来、生物多様性と食の伝統を保護し、環境的かつ社会的な側面から持続可能な食を目指す活動を続け、現在は世界150カ国10万人以上の会員を持つ巨大組織となっている。

私がイタリアに住み始めてすぐの頃、スローフード協会の幹部にインタビューをしたことがあった。

「毎日ていねいにパスタを手打ちしたり、伝統料理を作らなければならないなら、主婦たる女性の社会進出を妨げるのではないですか?」。当時、スローフードについての知識が浅かった私はこう質問した。すると帰ってきた言葉は印象的で、20年以上経った今も忘れられない。

「毎日立派な料理を作り食べる必要はないんです。会社帰りに買ってきたチキンと野菜をさっとゆでて、塩とオリーブオイルで食べる簡単な夕食でいい。ただ、その鶏肉と野菜は、オリーブオイルは、どこでどんなふうに栽培され、生産され、あなたの手元にやってきたのか、それを考える時間をもつ。自分の身体の中に入れる食品について立ち止まって考える、それがスロー、という意味なんです」

世界の名だたるシェフたち

そんなスローフード哲学の元に運営される食科学大学の「アカデミックテーブル」は、2013年に企画がスタートして以来、世界の名だたるシェフたちがやってきてランチを料理した。


学生食堂の壁いっぱいに、今まで参加したシェフたちの顔写真が飾られている。徳岡邦夫総料理長の写真は今、イタリア最高峰のマッシモ・ボットゥーラのそばに飾られている(写真:HIROYA KIZAWA)

世界の食の中心をフランスやイタリアからスペインへと書き換え、分子料理で世界に名を馳せた「エル・ブリ」のフェラン・アドリア(2013年)、イタリア・モデナの「オステリア・フランチェスカーナ」でミシュラン3つ星と「世界のベストレストラン50」で1位を獲得する一方、廃棄対象食品を使って生活困難者に料理を無料で提供するなど、貧困とフードロスという社会問題に取り組むマッシモ・ボットゥーラ(2014)、フレンチの大御所、自然から料理を創作する料理人と称されるミッシェル・ブラス(2015)などなど、そうそうたる顔ぶれのシェフたち合計150人が学生たちのために腕を振るった。

普段であれば何百ユーロもする料理を提供するシェフたちが、材料費は1人につき5ユーロまでという縛りの中で料理をしたというのも、食ビジネスがどのように持続可能性を追求していけるかを学ぶうえでの大切なポイントだったという。


安い材料でも、こんなに美しい料理になるというお手本となった、カルロ・クラッコシェフの「黄卵のフライ」。鮮やかなグリーンのソースはブロッコリーのピュレ、種を抜きオーブンで6時間乾燥させたオリーブの実を飾って(写真:Marcello Marengo -Archivio UNISG)

「京都吉兆」が特製ランチを提供

コロナ禍とウクライナ戦争などの影響でストップしてしまった、有名シェフによる「アカデミックテーブル」だが、2023年にようやく再開を果たした。その後、2024年度の先陣を切ったのが、我らが日本「京都吉兆」の徳岡邦夫総料理長とそのスタッフたちだった。


イタリアという国に統一を果たしたサボイア王家の王宮群の1つとして、世界遺産にもなっている建物が大学の学舎となっている。その前で記念写真を撮る徳岡邦夫総料理長(左から2番目)とスタッフの面々(撮影:HIROYA KIZAWA)

本物の日本の味を体験してほしいという熱意を胸に現地入りした吉兆チームは、時間のない中で、地元ピエモンテ州の食材をどう日本料理に仕上げていくかという課題に頭を悩ませた。

試行錯誤の末に完成したのは「キノコ御飯、ピエモンテ牛照焼丼、焼野菜、ピエモンテ牛ヅケ添え」。赤身と脂肪部分がキッパリと分かれていながら柔らかく味わい深いのが特徴のピエモンテ牛は、サシの入った和牛に慣れた日本の料理人にとって未体験ゾーンの食材。

だが徳岡氏は「脂身の少ない上質なピエモンテ牛は、健康志向がより重視される現代で今後注目していくべき食材の1つのはず」と判断。調理法を工夫し、和の味に仕立て上げた。


吉兆の料理「キノコ御飯、ピエモンテ牛照焼丼、焼野菜、ピエモンテ牛ヅケ添え」。ポルチーニ茸など5種類の季節のキノコを炊き込んだご飯の上に、50日間低温熟成をかけたピエモンテ牛のもも肉の照り焼き、イタリアの焼き野菜をのせて。山椒をふったマッシュポテトや、漬けに仕立てたピエモンテ牛の生肉も。奥左は「鶏汐出汁のスープ」奥右は本みりんだけの甘味で作った牛乳のジェラート。値段はセットで25ユーロ(約4000円)。普段のランチは8ユーロ(約1280円)程度なので破格の高さではあるものの、学生たちは行列を作って食べにやってきた(撮影:HIROYA KIZAWA)


9月17日に行われた京都吉兆のランチタイムにて。特製ランチを食べる学生たちの間を歩き、感想を聞いて回る徳岡邦夫総料理長(右白衣)。学生たちからの質問には丁寧に、フレンドリーに答えていた(撮影:HIROYA KIZAWA)

本番当日、学食に食べにやってきた学長のカルロ・ペトリーニ氏は、一口食べて「参りました!」の表情。

室町時代から伝わる汐出汁の技術を応用した「鶏汐出汁のスープ 卵締め」のおいしさには、多くの学生たちが「これはなんですか?」「どうやって作ったの?」と徳岡氏を質問攻めにするシーンも。

同日の午後には、日本酒とみりんを紹介するトークセッションも行われ、会場となった講堂を予定よりも大きいものに急遽変更するなど、食科学大学の学生たちの日本料理への興味の深さが垣間見られた。本物の日本の味、文化の一部を正しく伝えられた素晴らしい機会となった。

食を総合的に学ぶ動きが日本でも

この食科学大学が生まれた2004年当時、他に例を見ない試みとして世界から注目を浴びた。そして20年が経った今、世界各地で同様の動きが急増している。日本でも2018年に京都の立命館大学が食マネジメント学部を設立。食の総合学部としては国内初となった。

そして現在、東京でも東京女子大学がイタリアの食科学大学の教授陣を招いたり、東京学芸大学は辻調理師専門学校と提携して「食と環境」をテーマにした研究と教育を進めるなど、食を総合的に学ぶ動きはますます加速している。

食とは、単においしいまずいを語る存在ではなく、生きる物すべての命をつなぎ、地球環境に深く関わる問題であることが再認識され始めた今、正しい知識を身につけた人材が各界から求められているからだ。そこで学んだ若者たちが世界に羽ばたき、明るい地球の未来を築いていってくれることを願うばかりだ。

(宮本 さやか : ライター)