教師の考えと保護者の思いが一致しないのはよくあることだろう。両者のギャップを埋めるのはなかなか難しい。悪くすれば対立のもとになる。しかし公立中学校で20年以上にわたる勤務経験をもつ長谷川博之氏は、保護者との対峙を恐れてはいけないと言う。著書『生徒に「私はできる!」と思わせる超・積極的指導法』をもとにした特別記事で、長谷川氏がその真意を明かした。
前回の記事〈生徒の半数が「落ちこぼれ」…どん底で27歳の中学教師が始めた「夜の学習会」が教育現場を変えた〉を読む。
「ふさわしい行動をお願いします」と保護者に直言
始業式の日、こんなことがあった。
新しく赴任した教員の挨拶が長びき、式が若干延びてしまった。終わりまであと半分ほどを残したあたりで、新入生の保護者がどやどやと体育館に入ってきた。
私は体育館のいちばん後ろから式を見ていたが、入ってきた保護者の態度はすこぶる悪かった。あたりを憚らず(はばからず)しゃべるのでうるさい。品のない笑い声で式の雰囲気もぶち壊しだ。
こういうとき、私はまず視線を送るようにしている。人がじっと見つめるその視線に気づけば、子どもでも行いを改める。ところがこのときの保護者は私が見つめても意に介さず、黙ろうとしなかった。その後に続いてさらにほかの保護者入ってきたが、みなガヤガヤと騒いでいる。
私は歩み寄って、はっきりとこう告げた。
「式の最中なので、ふさわしい行動をお願いします」
授業参観の日。私のいる学級のすぐ隣が空きスペースなのをいいことに、授業中であるにも関わらず、保護者が数人、屯(たむろ)して話に花を咲かせている。おしゃべりを楽しんでいる面々は小声で話している「つもり」なのだろう。だが授業中の誰もいない廊下で話すので、声が反響して教室内にも届いてくる。
「ちょっと待ってて」
私はそう子どもたちに指示を出し、廊下に出て保護者にはっきりとこう伝えた。
「授業中ですから静かにしてください」
始業式であれ授業参観であれ、悪いのがあきらかに親であれば、直言するのも教師の役割だと思う。
三者面談の日。私が生徒のほうに質問をしているのに、話を引き取って話し始めてしまう保護者がいる。我が子の代弁をしているつもりなのかもしれないが、目に余るとき私は、
「少し待っていてもらえますか」
とはっきり伝える。
ただ、この場合は子どもの将来を案じる親の気持ちもわかる。「保護者が悪い」とバッサリ切るのもどうかと思うので、話を引き取る“癖”のある親がいるとわかっている場合、私は面談の1週間前くらいに電話を入れて、
「他の先生からも情報をあつめてちゃんとお答えしたいので、お聞きになりたいことがあれば教えてもらえませんか」
と保護者にお願いして先手を打っておく。こうすれば、話そうとしている生徒の口を保護者が塞いでしまうことはほとんどなくなるはずだ。
保護者に「物申す」のは、生徒のためでもある
保護者とは「共汗関係」を築く……常々そう言っている私ではあるが、だからといって保護者に阿る(おもねる)ことはしない。
子どもは、大人の狡さ(ずるさ)に敏感だ。彼らは、相手によって態度を変える大人を信用しない。教師が発言を左右すると、生徒たちは必ずそのことに気づく。そんな教師が生徒指導に入っても、子どもたちは、
〈お前がいつも見て見ぬふりをしていること、オレ(私)は知ってるぞ〉
と思っているから、おとなしく話を聞いているように見えても、結局なにも伝わっていない、ということが起こる。なかには教師の悪いところを真似して、接する大人によって態度を変えるようになる子も出てくる。
だが、明らかに保護者の側に改めるべき行いがあるとき、教師がしっかり直言できれば、子どもたちはこう納得する。
〈先生はウソをつかないんだ〉
だから私は、「保護者だから」「先輩だから」「卒業生だから」と忖度して発言を変えたりはしない。親にも子にも同じことを語ることにしている。
私のセミナーに参加した教員から、「保護者対応で強く出られません。どうしたらいいですか」という質問を受けることがある。
弱気になりすぎるのはもちろん論外だ。しかし、なぜ「強く」出なければならないのか。自ら省みて正しいと揺るぎなく確信できたなら、言うべきことをスマートに言えばいい。それもまた保護者対応の要点のひとつだ。
実際、校内で目に余る行動がみられるときは、他の保護者も〈だれか注意してほしい〉と思っているものだ。授業参観で保護者をたしなめた日、参観後の三者面談で、一部始終を見ていた転入生の保護者は私にこう言った。
「先生、先生の授業見てよかった。感動した! 一番はね、先生、廊下のうるさいやつら一喝したでしょ。あれスカッとしたわ〜! 私も行こうと思ってたのよ」
「もう君らを信頼できない。授業はしない」
もちろん、はっきり伝えることで保護者とぶつかることもある。だが、対立は対話を始めるチャンスにもなる。
教師になって3年目、はじめて1年生の担任になったときのことだ。私の学級で「いじめ」が起こった。
発覚したきっかけは、こんなことだった。
秋口、合唱コンクールの練習が始まったころのことだ。ある男子生徒(Aとしよう)が他の男子2名にからかわれ、泣いているところに偶然、私が通りかかったのである。
Aのまわりには他の生徒もいたが、だれも止めようとしていなかった。居心地悪そうな様子は見せつつ、生徒たちはみんな傍観者を決め込んでいた。
あとで子どもたちから詳しい話を聞いたが、その内容に私は愕然とした。
たまたま私が発見した時点で、実に5ヵ月もAが差別され、からかわれていたことが分かったからだ。不覚にも私は5ヵ月間、気づけなかったのである。ほとんど犯罪とすら言えるミスだ。教師失格だと悔やんだ。
当時の勤務校には、5つの小学校から生徒が入ってきていた。調べてみると、その5校の小学校のうちの1校で起きていた「いじめ」が、進学してからもずっと続いているのだという。思っていた以上に深刻だ。何よりもまず、この問題に関する指導を徹底しなければ、授業などしても意味がない……だから私は生徒たちを前に、
「もう君らを信頼できない。この問題が解決するまで、授業はしない」
と宣言して、本当に授業をやめた。保護者にも学級通信で、
「この問題を子どもたちがどう克服するのか、自分たちの行いを反省し、基本方針を出して具体的な行動を始めるまで、私は授業をしません」
と報告し、本当に授業をやめてしまった。結局、授業をやめていたのは4日間だったが、ボイコットを初めて2日目くらいから、保護者からさまざまな反応が返ってきた。
「小学校時代から続いていたいじめです。先生、がんばってください」
そう応援してくれる手紙が多かったなかで、そうでない意見を書いてくる保護者もいた。
「授業をしないのはおかしい」
「厳しすぎる。子どもが疲れています」
いまでもよく覚えているが、そういった手紙を書いたのは、「いじめ」が起きた小学校の保護者だった。私は手紙が届いたその日のうちにこう返信した。
「いじめられている男子生徒は、あなたもご存じのA君です。あなたの子が通っていた小学校の子です。自分の息子がA君と同じ立場だったら、あなたは同じことを私に言うでしょうか」
その保護者の子どもが、小学校で「いじめ」に加担していたかどうかはわからない。しかし傍観していただけだったとしても、「当事者」であることに変わりはない。そう思えばこその反論だった。
事件を乗り越えたとき、保護者たちは「大応援団」になった
このような調子で、応援してくれる保護者、批判する保護者それぞれと、1週間あまりで100通にのぼる手紙をやりとりした。あわせて日記指導を中心に生徒指導に力を注ぎ、「いじめ」を撲滅する手を次々と打っていった。その詳細は別の機会に述べたいと思うが、ある日「いじめ」を受けていたAが、日記に次のような決意を書いて私に提出してくれた。
「お母さんのかいた日記と長谷川先生の返信とが僕をゆうきづけ、この中学校にいられるじしんがつきました」
これでひとまず解決できたと判断した私は、授業を再開した。
Aはその翌年も私の学級だったが、「いじめ」が再燃した様子は見られず、友人が増え、笑顔も増え、楽しく生活できている様子がうかがえた。
いじめ事件はこうして幕引きとなったが、授業を自ら放棄した担任(私)と、それぞれの生徒の保護者たちとの関係は、その後どうなっただろうか。
なんと、保護者が「大応援団」になってくれたのである。当時の私は安アパートで独り暮らしだったが、野菜やおでん、カレーを差し入れてくれた方がいた。学級や学年経営に積極的に協力してくれるようになった人も、数知れない。
このときの経験が、いまの私につながっている。私は教師になったのではなく、保護者の力で育てられ「教師にしてもらった」のだ。保護者とは本来、そのようなエネルギーを秘めた存在なのである。そして保護者のエネルギーを引き出すためには、教師が熱をもって、オープンマインドにぶつかっていくことが、何よりも大切なのである。
後編記事〈親に「やめなさい」と苦言…それでも「クレームなし」の中学教師はどんな保護者対応をしているのか〉へ続く。