「もしもツアーズ」「めざましテレビ」「ぽかぽか」など、多くの人気番組に出演していた人気アナウンサー・渡邊渚さん(27)が、8月31日をもってフジテレビを退社。現在は独立し、個人での活動を続けることを明らかにしている。10月1日にインスタグラムでPTSDだったことを告白し話題をよんだ渡邊さんにインタビュー取材を行ない、辛い闘病生活や病気を告白するに至った経緯、フジテレビを退社した理由を聞いた。
【画像】渡邊さんが療養中に書いていた直筆メモ
病気の詳細を公表できなかった理由
ーー先日フジテレビを退社された渡邊さんですが、現在はどのような状況なのでしょうか?
渡邊渚(以下、同) 8月31日付けで退職し、現在はフリーの立場です。アナウンサーの仕事に固執しているわけではないので、いろいろなことにチャレンジしていければと。
ーーインスタグラムを拝見したら、多数の芸能事務所からもフォローされていたので、「もしかして引き抜かれたのかな?」と。
フォローしていただいていることを、いま知りました!(笑)
所属についてお話をいただいたことはありますが、自分が今後目指したい方向性と、事務所がフリーアナウンサーに求める像の間には、少しギャップがあるなと感じて。
それに、自分の体のことについても考えなければならなかったので、「独立して、自分で道を選んでいこう」と決心したんです。
ーーやはり体調面も、退社を決めた理由のひとつだったんですね。そもそも、どういった病気だったのでしょうか?
昨年6月に、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症してしまったんです。PTSDは生命が脅かされるような出来事がきっかけで起こるものなので、原因については詳しくお話しできないのですが……。
ーーもちろん、大丈夫です。髪の毛も短くされたりと、SNSでは重病なのではないかと憶測が飛び交っていましたが、そうではないと。
はい、もちろん身体にも影響は現れていたのですが、どちらかというと精神面の疾患でした。
当時はいくつかの診療科に通っていたのですが、一番長く休む原因となったのはPTSDでした。
PTSDの治療のために飲んでいた薬の影響で、一時期髪の毛が抜けてしまい、どうせ抜けるならと思い切って短くしたんです。現在は毛が抜けたりはないんですけどね。
ーー自ら病名を告白するのも、勇気が要りますよね。
はい。会社としても私を守るためだったと思うのですが、会社の方針として、自分の病気に関して、公の場で話してはいけない決まりだったんですよ。
だから、SNSなどで私の病名についていろいろと話されているのも知っていましたし、早く公表してラクになりたいという気持ちもありました。
黙っていると、みなさんに対して嘘をついているような気がして…。でも会社に所属している以上、方針には従わないとな、と。
SNSで心ないコメントをいただくこともありましたし、話せないこと、そして理解してもらえないということは苦しかったですね。
ーーでは、今はすごくホッとした気分もあるのでは?
おっしゃるとおりで、自由に発言できるようになって、ホッとしています。
PTSDやパニック発作で、外出もできない状態に
ーー体調面では、過去にメニエール病を発症したことも明かされていましたよね。
2年前にメニエール病にかかってから、目が回ってしまったり、片耳が聞こえなくなったりといったことが頻繁に起きるようになってしまって。
仕事中は特に大変で、自分が話している音が正しいのか、わからなくなってしまった時期もありました。
加えてPTSDによって食事が摂れなくなったことで、生放送中に体がフラフラと動いていたことがあったようで。
カメラマンさんが「ずっと揺れているよ」とおっしゃっていたのですが、たしかにそのときは立っているのも辛く、手元の原稿の文字も歪んで見えて……。
画面や音としてはギリギリ放送できるラインを保てていたと思うのですが、知っている人には異様な状態に映っていたのかなと。
ーーそのとき、会社は休まなかったのですか?
実は長い休養に入る前、2週間ほどお休みをいただいたのですが、特番やチャレンジしたい仕事がたくさん入っていたので、すぐに現場に復帰したんです。
ただ、無理をしたぶん結局ガタが来てしまって。そのあと症状がどんどん悪化してしまい、1ヶ月で5kgほど痩せてしまいました。
もう立っていられない、歩くのも精一杯な状態で、最終的に医師の方に「入院しましょう」と言われたので、長期で休むことになったんです。
ーーインスタグラムでも、入院の様子は投稿されていましたね。入院中はいかがでしたか?
入院中はほぼベッドの上にしかいられなくて、動くこともままならない状態だったので、けっこう大変でしたね。
あと、PTSDの特徴的な症状の一つに「過覚醒」があるのですが、それによってささいな物音にも恐怖を感じて眠れなかったり、ストレッチャーを引きずる音が怖くなったり……。
とにかく常に気が張り続けていたので、まずはそうした覚醒状態を薬で抑えるところから治療を始めました。
ただ退院してからも、しばらくは家の中でしか過ごせなくて。同時にパニック障害のような症状も現れていたので、外出するのがとにかく怖かったんですよ。
電車やバスに乗るにもひと苦労。タクシーなんて到底乗れなかった。エレベーターも、知らない人が同じ狭い空間にいるのが耐えられなくて、使えなかったです。
ーーそこから、どのように回復していったのでしょうか?
小さなことのように聞こえるかもしれませんが、「今日はマンションを出るところまで頑張れた」とか、「近くのコンビニエンスストアに行って戻って来られた」とか、本当に毎日ちょっとずつ行動する範囲を延ばしていったんです。
そうした生活を数ヶ月続けたんですが、正直なところ、あまり回復しなくて。
ちょっと外出することができたり、自宅に友人が来てくれたりしたとき、その瞬間は楽しいのですが、少し先を想像して「何を目標に生きていけばいいんだろう?」という気持ちが襲ってきてしまって。
「“病んでいる”ってこういうことなんだ」と思いましたし、「なんで生きているんだろう」という気持ちというか……振り返ると、今年の初めのころは我ながら大変な時期だったと思います。
生きる希望を与えてくれた友人の言葉
ーーそうした出来事を経て、いま笑顔でいられるのは、なぜだと思いますか?
やっぱり周りにいてくれた人たちのおかげです。数少ない友人たちは、私が病気になった次の日にすぐ駆けつけてくれたり、私が「死にたい」と口にしたときにも、優しい言葉を返してくれたりしました。
それに、ずっと仕事でお世話になっていた先輩も、治療中によく励ましてくれていましたね。
ーーフジテレビを退社したあとも、尊敬している先輩や共演したタレントとは交流があったのでしょうか?
どちらかというと、私はタレントさんよりも、番組スタッフの方々と仲が良かったです。特に「もしもツアーズ」を担当されていた女性プロデューサーさんとはすごく仲良しで、病気になる前から家に遊びに行くような間柄で。
病気になってまだ症状が酷くないときに、その方の家に行ったんですよ。そこで、「私は幸せになれるのかな」と言って。
そしたら、「絶対に幸せな未来がやってくる」と断言してくれたんです。その言葉には、今でもすごく励まされています。
ーー救われる言葉を投げかけてくれた、と。
はい。また嬉しいのが、最近その方に子どもが産まれたんですが、その子が「なぎちゃん」という名前なんです。
私がこの1年間どんな状態だったか知っている人が、まさか私の「渚」から取って、大切な子どもの名前にしてくれるなんて。
私は「そんな名前つけて大丈夫?」と言ったんですが、同時に本当に嬉しくて。「この子に恥じないように生きていこう」と強く思いましたし、生きる希望を与えてくれました。
ーー素敵なエピソードですね。そのほかに、優しい声をかけてくれたタレントなどはいましたか?
常に気に掛けてくださっていたのは、キャイ~ンの天野ひろゆきさんです。
入院中、症状との兼ね合いで太陽の光を浴びられなくて、病室の窓に段ボールや遮光シートが貼られてしまい、今が朝なのか、夜なのか、真っ暗で本当にわからない環境のときがあったんです。
そしたら、天野さんが「いま外はこんな感じだよ!」と写真を送ってきてくれたり、ウド鈴木さんや花火大会の写真を共有してくれたりして。当時の私にとって、すごく心の栄養になっていました。
取材/鈴木ひろあき 集英社オンラインニュース班
構成・文/毛内達大 撮影/松木宏祐 ヘア&メイク/東川綾子