はっきり言ってしまえば、一言、言葉で言えば済むことをわざわざ映像表現でやらなくてもね……、という。映像とは言葉よりもっとパワフルなメディアである。長く説明的な会話は映像表現を間延びさせる。

 前半部は演出面を含めた映像表現が抜群だっただけに、後半部は脚本レベルのメッセージ性をきれいに再現するための映像の羅列にしか見えなかった。

◆エンタメと政治が切り離せない好例

 例えば、前半部には(社会的・政治的)テーマ性と映像表現が見事に噛み合った場面があった。それは明律大学女子部を卒業した寅子が、猪爪家の食卓でビールを飲んで、へべれけになる祝宴。

 深川麻衣主演映画『パンとバスと2度目のハツコイ』(2018年)でも片手に持ったビールがやけに様になっていた伊藤沙莉が、朝ドラでもやっぱりビール場面できめてくれる。なんて思い嬉しくなってしまったが、寅子による痛快な喉越しと痛飲が伝えるのは、太平洋戦争が開戦して激動の時代が迫る前夜との対比であったこと。

 楽しい場面のすぐ隣にとてつもないテーマ性が顔をのぞかせ、画面上でオーバーラップしていた。エンタメと政治が切り離せない好例ともいえる場面だが、それをさりげない演出の計算と配慮で描写したことに、本作前半部の圧倒的力強さと品格があった。

 でもそういう素晴らしい場面に限って、昭和10年代の女性が大ぴらにビールを飲むことがあるのか?みたいな難癖的な意見がネット上を飛び交うこともあった。まぁそんな横やりでさえ、寅子の口癖である「はて?」と一言疑問符で返しておけば、簡単に済んでしまうことかもしれないけど。

◆映像表現に純粋に奉仕する役割

 後半部にだって素晴らしい場面はある。早足な現代史の授業化の一方、逆に社会的・政治的背景とは関係なく(見えるように)、純粋に映像表現が粒だつ瞬間が観測できた。

 第18週第90回。新潟篇で、寅子とのちに伴侶となる同僚判事・星航一(岡田将生)が、初めて心のうちを吐露する場面だ。馴染みの喫茶「ライトハウス」で、戦時中に総力戦研究所の一員であり、戦争責任の一旦が自分にもあるのではないかと語る航一。「外で頭を冷やしてきます」と言って外に出た彼の頭上、わずかに降り積もった雪の粒が、まさに本作最大の粒だちの美しさをたたえた場面だった。

 あるいは、東京地方裁判所所長、続いて最高裁判所第5代長官になった桂場等一郎(松山ケンイチ)が、第1週第1回から一貫して厳粛な存在感を固定し続け、ひとり所長室や長官室の室内場面で孤独な演技を極めた功績をたたえなければならない。この桂場の存在があったなら、もう他に余計な言葉なんて全然必要ない。背景の説明だって不要だ。

 最終週第129回、退官した桂場が、大好きなあんこ団子をゆっくり口に運び、寅子に見つめられながらその味を噛み締める姿は、特に際立つわけでもないのに、視聴者を納得させてしまう力がある。

 社会派かどうか。政治的かどうか。長官という本作でもっとも社会的な地位があり、政治的立場に置かれた人物が、実は一番それに縛られずに映像表現に純粋に奉仕する役割だったことこそ、特筆すべき事実だと筆者は思う。

<文/加賀谷健>

【加賀谷健】
音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu