横浜F・マリノスがクラブ初のアジア制覇に王手をかけて迎えたACL決勝。その知られざる舞台裏に迫る「UAE戦記」をお届けする。もっと強く、もっと熱いクラブという未来を見据え、チームマネージャーを務めてきた飯尾直人は、どのような思いを語るのか。

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 何とか、しなければ――。

 クラブ初のアジア制覇に王手をかけて迎えた試合当日、飯尾直人は酷暑の異国でキックオフ時刻が迫るなか、電子チケットの確保に追われていた。AFCチャンピオンズリーグ(ACL)で決勝に駒を進めた横浜F・マリノスは、ホームでの第1戦を2−1とリードして折り返し、アウェーのアラブ首長国連邦(UAE)に乗り込んでいた。

 チームマネージャーの飯尾は、監督やチームドクターらとともにACLでのベンチ入りを義務づけられている。それなのに決勝第2戦が始まるギリギリまで電子チケットをかき集めていたのは、日本から遠路はるばるUAE入りしていたファン・サポーターの一部が、スタジアムへの入場に必要なそのチケットをまだ確保できずにいたからだ。

 ナイトゲームの決勝第2戦は現地時刻の20時過ぎに始まり、飯尾たちはまさかの結末を迎えることになる。2006年に新卒で横浜F・マリノスのコーチとなった飯尾は、スクール運営などで長く普及活動に携わってきた。19年にはJリーグ運営担当に配置換えとなり、22年以降はチームマネージャーも任されている。普及の現場を預かるコーチから、事業の担い手となったクラブ生え抜きの飯尾は、23−24シーズンのACLで得られた貴重な財産を、どのような未来に繋げていこうとしているのだろうか――。

 決勝を戦うアルアインとの心理戦は、飯尾たちが事前に敵地を視察した4月30日(決勝第2戦の25日前)には始まっていた。現地を案内してくれたのは全身白装束で、アラブ人であることが一目瞭然のチームマネージャーだ。

 こっちだ、俺についてこいと言わんばかりのジェスチャーに始まった、スタジアムや練習会場のチェック作業にはある種の駆け引きが含まれていた。アルアインのチームマネージャーが歓迎ムードを漂わせながらも、交渉を有利に進めようとするかのようなしたたかさを随所に覗(のぞ)かせていたからだ。

 幼稚園児の頃には自然とボールを蹴っていて、大学1年生の途中までサッカーを続けた飯尾がコーチの道を歩みだしたのは「お前どうせ暇だろ」と、かつてのチームメイトに誘われたのが始まりだ。小学生にいざサッカーを教えてみると面白く、子どもたちの成長を間近で見守れるコーチングに飯尾はのめり込む。
 
 大学3年の冬には日本サッカー協会のC級ライセンスを取得し、続いて横浜F・マリノスが初めて開催したプロコーチを採用するためのセレクションも突破した。大学を卒業する06年の2月から正式にF・マリノスで働きはじめ、16年には社員となる。

 大学4年時のいわゆるインターン時代を含めれば、飯尾がこのクラブで迎える20年目にして初めてACL制覇の絶好のチャンスが訪れた計算だ。

 決勝第2戦のキックオフは5月25日の夜。先行して20日に日本を発った飯尾は、アルアインのチームマネージャーと交渉を続けていた。話が違っていたからだ。

 F・マリノスのファン・サポーターたちを迎えるアウェー用のシートは、2000席を用意する。5月11日の決勝第1戦を前にして、飯尾はそう聞かされていた。ところが実際は1100席しか用意されない。そう判明したのは、飯尾がすでにUAE入りしたあとだった。

 F・マリノスが公式サイト上でクラブとしての対応策をアナウンスしたのは、試合3日前の5月22日。混乱を避けるためにチケット希望者は翌23日までの事前登録制として、応募が予定枚数(1100席)を超えた場合は、厳正なる抽選の結果をメールで知らせることにした。