〈前後編の後編/前編を読む〉悪しき「ゆとり教育」と戦った数学者の述懐 「『12×231』を解けない小学生」が流れを変えた
東京理科大学理学部(理学研究科)教授、桜美林大学リベラルアーツ学群教授を歴任した芳沢光雄氏は、2000年代の「ゆとり教育」に警鐘を鳴らし、専門家会議の委員も務めた。当時こそ数学教員の採用数は大幅に減らされたものの、教員不足の昨今では、むしろ採用人数を増やす動きがある。こうした風潮に、芳沢氏は「歴史の反省の上に立った採用計画を」と訴える――。
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【実際の回答を再現】厳しすぎ?意地悪?漢字テストで”不正解”になった「男」「加」「口」
筆者は2007年に、桜美林大学にリベラルアーツ学群の設置人事で移り、昨年に定年退職して現在に至る。その前後は小中高校への出前授業ばかりでなく、全国各地の教員研修会での講演も積極的にお引き受けしていた。たとえば2006年から2008年にかけては、のべ20カ所の教員研修会で講演をした記録がある。全国各地の現場の先生方との交流も、とても意義のあるものであった。
ところが2009年に、事態が急変する新たな制度が導入されたのである。10年に一度の教員免許更新制である。しばらくの間はこの制度の実態を知ろうと思い、何カ所かの免許更新講習の講師を積極的にお引き受けした。それを通して得た結論は、「これは矛盾に満ちたものである」ということである。2013年に出版した拙著『論理的に考え、書く力』(光文社新書)には次のことを述べた。背景には、数学にとって本質的に重要な「自由に考える時間」を無意味な制度が奪っている、という悔しい気持ちがあった。
〈毎年、あちこちの会場で免許更新講習が行われているが、教育現場に全く興味をもたない大学教員が自分の専門のトピックスをばらばらに話しているだけのところが圧倒的に多く、昔からあった各自治体での定期的な教員研修制度の方が、現場を考えての研修だけにずっと機能していたと断言できる。 そもそも、この制度のきっかけとなった「不適格教員」の問題は、制度ができる前に対処の方法が確立していたのであり、何のための制度かさっぱり理解できない。せいぜい、教員の身分が不安定になったように印象づける制度かも知れない。それによって失ったものの方がはるかに大きいと考える。〉
その頃は、「お上に逆らうと、危ないでしょう」とあちらこちらから言われ、教員免許更新制を高く評価していた某マスコミからは批判され、無視されるようにもなった。しかし、結果的に2022年になって教員免許更新制はようやく廃止された。 振り返って、現場とはほとんど無関係な話をのべ30時間も聞かされ、この講習を受けなければ教員免許は失効にもなった。この制度を理由に教員になる夢を諦めた若者も多くいたばかりでなく、他の職に転職した現職教員もいたのだ。もしこの制度が続いていたら、事態はより深刻であったに違いないだろう。
ズタズタになった状況を痛感したボランティア授業
経済面に目を向けると、1990年頃には、日本のGDP(国内総生産)は2位で、IMD(世界競争力年鑑)では1位であったが、2023年にはそれぞれ4位、35位となった。このような現状を鑑みて、経済産業省は2019年に「数理資本主義の時代〜数学パワーが世界を変える」というレポートを発表し、政府の教育未来創造会議は2022年5月に、理系分野を専攻する大学生の割合を2032年ごろまでに現在の35%から50%程度に増やす目標を掲げた。
このような流れになった現在、90年代にあったような算数・数学そしてそれらの教員に対する厳しい風は収まり、フォローの風も吹いている感がある。しかし、ズタズタになった状況は一気に好転するものではない。
とくに、「理解」させることが重要な算数・数学が、安易に「暗記」の教科になってしまっていることが、深刻だと言わざるを得ない。とくに「割合%」の理解が曖昧な若者が多く、この問題の解決が急務だと訴えたい。
筆者は桜美林大学に本務校を移した数年後に、大学の就職委員長を補職としてお引き受けした。当時はまだ大学生の就職状況が悪く、とくに適性検査の非言語分野(算数・数学の基礎的な発想)が弱い状況の改善を試みる必要性を痛感した。そして、後期の毎週木曜日の夜間に「就活の算数」ボランティア授業を行った。そこで見たことで一生忘れられないことは、微分積分の計算は得意であるものの、「割合%」の問題が苦手な学生が多くいることである。
「暗記」で誤魔化す教育に成り下がっていた
原因を徹底的に追求したところ、昔ならば「理解」の教育として扱っていた「割合%」が、単に公式の「暗記」で誤魔化す教育に成り下がっていたのである。同じことが、「速さ」の問題でも見受けられたばかりでなく、図形の教育で大切な「用語の定義」をいい加減にして、面積などの「公式」の暗記だけで済ませていたのである。
そこで筆者は、あるべき理想とする算数教育を想像して、算数の全範囲に渡る指導書をも作る意気込みで、ボランティア授業を続けた。その後、学長先生のアドバイスによって、その授業はリベラルアーツ風にアレンジさせた正規の授業「数の基礎理解」として退職年度まで続けた。本年5月にはそれらの内容をまとめた『昔は解けたのに…大人のための算数力講義』(講談社+α新書)を上梓し、最近、韓国での訳本の出版も決定した。
全国学力テストに見る、深刻なデータ
ここで、「割合%」の問題に関する深刻なデータを、全国学力テストの結果から2つ紹介しよう。
・一つは、2012年の算数A3(1)(小学6年)では次の問題が出題された: 赤いテープと白いテープの長さについて、
「赤いテープの長さは120cmです」
「赤いテープの長さは、白いテープの長さの0.6倍です」
が分かっているという前提で、4つの図から適当なものを選ばせる選択問題。
誤答の「3」(白いテープの長さは赤いテープの長さの0.6倍になっている図)を回答した児童が50.9%もいる半面、正解の「4」を回答した児童が34.3%しかいなかったのである。
・一つは、2012年度の全国学力テストから加わった理科の中学分野(中学3年対象)で、10%の食塩水を1,000グラムつくるのに必要な食塩と水の質量をそれぞれ求めさせる問題が出題された。「食塩100グラム」「水900グラム」と正しく答えられたのは52.0%に過ぎなかった。実は昭和58年に、同じ中学3年を対象にした全国規模の学力テストで、食塩水を1,000グラムではなく100グラムにしたほぼ同一の問題が出題された。この時の正解率は69.8%だったのである。
今後、教員の採用数が一気に増える運びとなったことは良いとして、算数・数学を指導する者として、「暗記」で誤魔化すのではなく、本来の「理解」の教育を心掛けていただきたいのだ。そのような方向で教員自身が努力しなければ、再び暗い時代が到来するかも知れないと考える。
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【前編】では、かつての「ゆとり教育」と戦った芳沢氏の取り組みを紹介している。
芳沢光雄(よしざわ・みつお)
1953年東京生まれ。東京理科大学理学部(理学研究科)教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群教授に就任、2023年に定年退職。理学博士。専門は数学・数学教育。近著に『昔は解けたのに…大人のための算数力講義』(講談社+α新書)ほか著書多数。
デイリー新潮編集部
外部リンクデイリー新潮
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