[画像] 川崎の黎明期に躍動した元Jリーガーが“高校サッカーの指導者”として辿り着いた境地「悔しさを指導に生かしたいんです」

 川崎フロンターレに5年間在籍した浦田尚希は、公式戦での得点は13点にとどまったが、そのなかには昇格を決めるVゴール、優勝を阻止する決勝点というように価値がはね上がる一撃もあった。2002年シーズン限りで引退し、中学と高校の教師などを経て13年から埼玉平成高の保健体育科教諭、サッカー部顧問として地元に腰を落ち着かせている。

 埼玉の名門・武南高2年で全国高校選手権8強、3年でベスト4進出。Jリーグ入りを希望したが、声が掛からなかったため熱心に誘ってくれた国士舘大に進んだ。3年生の秋からレギュラーとなり、関東大学リーグ1部で4年ぶり6度目の優勝に貢献。翌年のリーグ戦は2位だったが得点王を獲得し、全日本大学選手権では14年ぶり2度目の制覇に尽力して最優秀選手賞に輝いた。

 だがこれだけの実績を残しても、Jリーグからの雇用はなかった。

「自分は俊足でも長身でもないので、スカウトはプロ向きではないと判断したのでしょうね。大学関係者は教員になることを勧めましたが、どうしてもプロでやりたかった。そんな時に川崎から話があったんです」

 チーム名が川崎フロンターレに変わり、Jリーグ準会員となった1997年に加入。ジャパン・フットボールリーグ(JFL)を戦っていた時期だ。

 当時は運営母体の富士通の社員にもなれたし、プロ契約も交わせたが浦田はプロとして勝負する道を選んだ。しかし「FWのポジションを争うライバルは、今までとはまるでレベルが違いました」と述懐する。

 元ナイジェリア代表のムタイルは96年から在籍したエースで、1試合5点のJ1最多得点記録を持つ野口幸司が97年途中に加入。翌年はツゥットに服部浩紀のほか、「ヴァルディネイという半端なく上手いブラジル人も加わり、どう食い込んでいこうか頭を悩ませました」と苦笑する。
 
 3年目の99年にJ2が発足し、創設メンバーとなった川崎は、ティンガとツゥットのブラジル人コンビが活躍。松本育夫監督が第6節から指揮を執ると、第9節から12試合連続負けなしで首位に立ち、第34節のサガン鳥栖戦で2位以内を確定させてJ1昇格を果たす。立役者のひとりが浦田だった。

 後半16分に起用され、1−1で延長に入った。その前半14分、武南高と国士舘大の先輩・伊藤彰の左クロスをヘッドで合わせてVゴール。控えめ男が派手なガッツポーズをつくって大喜びした。

「この年は松本さんに上手く使ってもらった。点を取らないと外されるので、とにかく出場したら結果を残すことだけを考えた。単年契約だし1年、1年が勝負でした」

 99年はリーグ戦28試合で6得点。このうちベンチスタートの16試合で4点を奪う勝負強さを見せた。

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 J1は今までとは別世界だったそうで、「観客数もメディアの数も露出度も全然違った。それに選手の質が高く、力を抜いて効率的にプレーしている人が多かった印象ですね」と往時を思い起こす。

 晴れやかなJ1の舞台では、アビスパ福岡との開幕戦から4試合続けて先発。あのVゴールを決めた後も、天皇杯3回戦でジェフユナイテッド市原から2得点するなど、好調さを堅持していた。
 
 だが好事魔多し。元々右足首の状態が悪く、それに加えて右ひざの内側と外側の痛みが治まらなくなった。手術するほどではないとの診断から、我慢しながら練習を続け試合にも出ていたが、「全然快方に向かわず、蹴ると痛くて仕方なかった。モヤモヤした気分を引きずり、出場しては離脱する悪循環でした」と苦々しい表情でこう言った。

 それでも初めて途中出場した第1ステージ第14節で初得点を決め、続く最終戦でも1−1の後半41分に送り込まれた。対戦相手のセレッソ大阪は、勝てば初のステージ優勝という一世一代の大仕事である。

 延長後半1分だ。我那覇和樹が右から入れた斜めのパスを、鮮やかな左足ボレーで右上に突き刺した。昇格を決める前年のVゴールに続き、またしても記憶に残る得点を刻んだのだ。「2回もおいしいところをもらっちゃいました。アップの時から今井さんに“早く出してくれ、出してくれ”ってアピールしていたんですよ」と嬉しそうに長居スタジアムでの出来事を説明した。

 今井敏明監督は前の4人についてはポジションを固定せず、流動的にプレーさせていた。「あの時の浦田は好調だったし、よく動き回る選手でした」と述べ、「俺に任せて下さい、ってアピールするのは大事なことですよ。私は監督時代、選手の目をちらっと見て確認したものです」と四半世紀前の記憶をよみがえらせた。
 
 ところが第2ステージに入ると右ひざの痛みが激しさを増した。ピッチに立ったのは4試合で、J2に降格した01年はさらに悪化。リーグ戦は控えに2度入っただけで、1試合も出場できずに契約満了となる。

 00年は川崎がJ1に昇格し、浦和レッズがJ2に降格した年だ。実家のある春日部市から埼玉スタジアムは近い。「一度でいいから埼スタでレッズと戦いたかった」と、この時ばかりは名残惜しそうだった。

 トライアウトで次の職場を探し、ヴァンフォーレ甲府が唯一手を挙げてくれたが、出場10試合で1得点。「ひざの痛みが限界に達し、子どもも生まれたので引退して次のことを考えないといけなかった」と腹を固めた。JFL、J2、J1と3つのカテゴリーで戦った6年間の短いプロ生活に別れを告げた。
 プロ選手になれたとしても引退後を視野に入れ、サッカーを生かせるのは教師と考え、大学では教育職員免許を取得していた。

 03年4月、埼玉県川口市立榛松中学の保健体育科に臨時的任用教員として赴任。サッカー部の顧問も担当し1年間奉職した。着任する2か月前、川口市内のサッカークラブでコーチを務めたことで、違和感なく生徒と向き合えたが、“臨任”は1年限りで終了する。

 Jリーグが02年に設立したキャリアサポータセンターに次の道を相談すると、石川県の金沢スポーツクラブV10を紹介してもらった。「フットサル場を新設し、サッカースクールを立ち上げるタイミングでした。金沢は雨の多い土地柄なので室内のスクールは需要があり、園児から中学生まで多くの生徒が集まりました」と説明し、3年間勤めた。

 第一子が小学校に入学する前、金沢に永住するか埼玉に戻るかで迷った末、後者に決めた。首尾よく東京の駿台学園高への就職がかなう。

 保健体育科教諭とサッカー部顧問の肩書で07年から6年間勤務し、「担任も持てて充実していた。部活動では上手くなるためのノウハウを伝えつつ、生徒が楽しくやれることに重心を置きました」と述べる。

 最後は地元に貢献したい思いが募り、13年4月から埼玉平成高へ職場を変え、今春12年目を迎えた。
 
 浦田が赴任した年の10月に人工芝グラウンドが完成。この2年後、将来プロで活躍できる選手育成と並行し、著名大学への現役合格を目ざす進学コース(スーパーサッカー)が新設され、硬式野球部とともに看板部活動クラブとなった。

 それまで部員は30人ほどで、戦績にしても02年に全国高校選手権予選の16強が1度あっただけ。しかしこれを境に中学生の好素材が続々と入部し、1学年で約70人集まるようになった。Jリーグ川崎でレギュラーの左SB佐々木旭、ツエーゲン金沢のDF長峰祐斗は一期生だ。

 15年には川崎で1年間同僚だった三島伸也がコーチに加わった。チームづくりの信条を尋ねると「高校で燃え尽きちゃうような指導はしたくない。的確な判断の下でプレーし、上に進んでも通用する選手を育てたいですね」と持論を展開し、「育成に力を入れつつも、しっかりビルドアップできる戦術で結果も追求していく」と述べた。

 浦田が指揮を執ってから、全国高校選手権予選は8強が1度にベスト16が5度。昨年の関東高校大会予選は準優勝し、本大会でも1勝した。中期的な目標は、県大会で常に8強から4強を狙える安定した力を身に付けることだ。

 埼玉にはサッカー関係の知人が大勢いるうえ、常に優勝候補だった当時の武南OBということから恩恵も受けた。ともに県高体連サッカー専門部委員長だった田中龍太郎、二見元は武南の先輩で、多くの卒業生が指導者として活躍していたからだ。
 川崎がJ1に昇格した頃、平山昌弘というフィジカルコーチに出会った。80年代後半、スキーの旧ユーゴスラビア代表チームに帯同し、五輪やワールドカップのメダル獲得に貢献。国内では各分野のアスリートを指導する腕利きのトレーナーだ。

 浦田は外国人選手が放つシュートやヘディングの威力の源が理解できなかったが、平山の理論を聞いたら納得し、筋力強化の考え方が180度変わったという。

 その平山が14年から指導陣に名を連ね、折を見ては選手に手ほどきしてくれる。

「身体の使い方がものすごく大切なことを学びました。一流選手というのは上半身をしなやかに使っていますが、多くの選手が固まってしまう。関節を上手に使うことが技術力向上に役立つことを知り、あれからずっと身体の使い方を研究しています」
 
 短いプロ生活に悔いはなかったのだろうか?

「僕は何をするにも無理をしていた。身体の使い方をもっと早く理解していたら怪我を防げ、もう少し長くやれたのかもしれない。だから身体の使い方を取り入れたメニューを勉強し、その悔しさを今の指導に生かしたいんです」

 浦田が取材中、一番力を込めて放った言葉がこれだった。

(文中敬称略/名称はいずれも当時のもの)

取材・文●河野 正