[画像] O・J・シンプソン事件 議論を巻き起こした「世紀の裁判」とその後

1994年、何台ものパトカーに追われカーチェイスを繰り広げる1台の車。逃げている男は、元妻とその友人を殺害した疑いがあり逮捕寸前に逃げたという。2時間以上のカーチェイスの末、警察は乗っていた男を逮捕。

その男とは、アメリカンフットボールのスーパースター O・J・シンプソン。殺人事件の容疑で裁判にかけられ数々の決定的な証拠が集まったが無罪に。一体なぜ、証拠がありながらも無罪を勝ち取ったのか?それは「世紀の裁判」と言われ、アメリカを二分する議論を巻き起こした。放送では、再現ドラマと実際の映像を交え紹介した。

今年4月10日、O・J・シンプソンが闘病の末亡くなった。彼はアメリカンフットボールのレジェンド。現役を引退してからは、テレビの解説者や大ヒット映画に出演する俳優としても活躍。まさにアメリカ国民なら誰もが知る存在だった。

だが彼の未来を大きく変える殺人事件が起きた。

1994年6月12日夜11時ごろ、ロサンゼルス郊外の高級住宅街で血まみれの女性が倒れていた。女性はこの家に住むニコール・シンプソン。2年前にO・J・シンプソンと別れた元妻だった。

翌午前2時10分。ロサンゼルス市警察・殺人課のマーク・ファーマン刑事が現場に到着。ファーマン刑事が現場を調べると玄関先の茂みの中に男性の遺体を発見。男性の遺体は靴を履いていたが、女性は裸足だった。女性の遺体のそばには血まみれの革手袋の片方があり、現場には血のついた足跡が残っていた。その足跡は犯人のものと思われた。

ニコールと共に殺された男性はロナルド・ゴールドマン。25歳のイタリアンレストランのウエイターだった。

午前4時5分、トム・ラング刑事が現場に到着。寝室ではニコールの2人の子供が眠っていた。O・J・シンプソンとの子供だった。O・J・シンプソンはこの殺害現場から5分ほどのところに住んでおり、午前5時、とりあえず彼からも話を聞こうと自宅へ向かったが応答がない。

その時ファーマン刑事はO・J・シンプソンの車と思われる車を発見し、その車の運転席側のドアと車内に血痕らしきものが残っていた。

O・J・シンプソンと殺された妻には過去にもトラブルがあった。事件の6年前、1988年の大晦日にニコールは911へ通報した。家から飛び出してきたニコールの顔には殴られた青あざがあり、口から血が出ていたという。O・J・シンプソンには罰金が科せられた。

さらに離婚後にも通報があり、それは殺害される8ヶ月ほど前だったという。離婚後も続けていたと思われるニコールに対するDV疑惑。今回の事件も何か関係があるかと思われた。

刑事たちは緊急時と判断し、捜査令状なしでO・J・シンプソンの家を家宅捜索することに。ファーマン刑事が塀を乗り越えて家に入った。

空が明るくなり、屋敷の離れで誰かが寝ているのを見つけた。それは居候しているO・J・シンプソンの友人 ケイトー・ケイリンだった。彼曰く、O・J・シンプソンは夜出かけていないという。

そして昨日の夜に大きな音を聞いたと話した。ファーマン刑事は物音がしたという方へ行ってみると、そこには血まみれの革手袋があり、元妻の殺害現場にあった手袋のもう片方の可能性があった。屋敷の離れにはもう一人、最初の妻との子であるアーネルもいた。アーネルはO・J・シンプソンの秘書に電話し彼の居場所をたずねた。すると、彼は友人とゴルフをするためシカゴにいるとわかった。そして朝の便でロサンゼルスに戻ることになった。

シカゴから戻ってきたO・J・シンプソンは家に入ることなく警察署へ向かった。そして 新たな疑惑が浮かび上がる。

殺された元妻ニコールは、O・J・シンプソンにとって2番目の妻。O・J・シンプソンにはその前に妻と子供がいたが、1985年に離婚、そしてニコールと再婚。2人の子供をもうけた。だが1992年、ニコールとも離婚していた。

取り調べが始まると、浮かび上がったのは事件当日、70分間の空白の時間があることだった。

事件のあったその当日、O・J・シンプソンとニコールとの間にできた娘・シドニーのダンス発表会があった。ニコールは自分の両親と息子のジャスティンを連れて会場へ。少し遅れてO・J・シンプソンもその会場に現れ、二コールとは少し離れた席に座った。

そして娘のダンスを見守り、発表会が終わるとニコールの一家はお祝いをする為レストランへ。O・J・シンプソンは自分も同席したいと声をかけたが断られていた。そして、ニコールがお祝いの会を開いたレストラン「メザルーナ」は、殺害されたゴールドマンが働いているレストランだった。

メガネを落としたという母の話を聞き、ニコールはすぐにレストランに連絡しその電話に出たのがゴールドマンだった。ゴールドマンは自宅まで届けてくれるという。午後9時45分、ゴールドマンはニコールの家へ向かい、そして事件が起こる。

O・J・シンプソンは、友人のケイトーと一緒にハンバーガーを買って帰ってきた。ケイトーは「じゃあ部屋に戻って食べるんでおやすみなさい」と伝え、別れた。

ここからO・J・シンプソンのアリバイは、シカゴに行くための送迎の車が来る時までの70分間途絶えることになる。つまりこの間、何をしていたかは本人しか知らない。

事件の死亡推定時刻は午後10時15分頃という説と10時45分という説がある。おそらく犯人は、ニコールの家を訪れたゴールドマンをまず殺害、そして物音に気づいたニコールが外に出てきた時彼女を殺害したと思われる。

午後10時25分、O・J・シンプソンを空港へ送るためのリムジンは約束の時間より早く到着し、運転手は呼び鈴を鳴らしたが中からの応答はなかった。午後10時50分頃、運転手は黒い服を着た身長180cm以上の男が家に入るのを目撃した。そこで5分後、もう一度呼び鈴を鳴らした。すると、O・J・シンプソンが現れ午後11時すぎに家を出て空港へと向かった。

家から殺害現場までは5分。死亡推定時刻を考えると犯行は可能だった。

事故現場に残されていた血痕とO・J・シンプソンのDNAは一致するのか?採取された血は8ccほど。血液サンプルは血液鑑定士のデニス・ファンリーに渡され、デニスは中身の血液を確認した上でそれをアシスタントに渡し、アシスタントは黒いビニール袋に入れ保管した。そしてこの一連の行動がのちに重大な問題を引き起こす。

午後4時、O・J・シンプソンは事情聴取を終え自宅へ帰った。それから3日間家の中にいるはずだったが、翌6月14日朝、マスコミが押し寄せる中8000ドルの現金と銃を持って裏口から自宅を脱出した。O・J・シンプソンをかくまったのは友人のロバート・カーダシアンという人物。

6月15日、O・J・シンプソンは密かにある人物と会っていた。全米きっての敏腕弁護士 ロバート・シャピロだった。さらに、この日ニコールの遺体と面会し、「アイム・ソーリー」を四回言ったという。O・J・シンプソンは堂々と現れて、子供の手を引いていたという。

事件発生から4日。現場血痕の血液型鑑定の結果が出て、殺害現場に残っていた血痕の血液型がO・J・シンプソンの血液型と一致。O・J・シンプソンに逮捕状が出された。

6月17日、逮捕状が出たと電話を受けたシャピロ弁護士はO・J・シンプソンをかくまっているカーダシアンの家へ。

そしてO・J・シンプソンの幼なじみのACが訪れた。ACはバッファロー・ビルズ時代のチームメイトで親友。ACは説得をし、この時、カーダシアンは席を外した。

11時の出頭命令の時間はとっくに過ぎていた。カーダシアンが中に入ると中に誰もおらず、残っていたのは4枚の紙にぎっしりと書かれた手紙だけだった。O・J・シンプソンはACと共に逃走したのだ。O・J・シンプソンは後部座席に座りニコールと二人の子供が映った写真を眺めていたという。パトカーが追いかけ、カーチェイスが始まった。

かくまったカーダシアンはO・J・シンプソンの家にやってきて、電話で説得にあたった。車はO・J・シンプソンの自宅へ向かっており、自宅は警察が完全に包囲、SWATチームも配置についていた。こうして、ようやくカーチェイスは終わった。

しかし彼は銃を頭に突きつけたまま。警察、カーダシアン、ACなど皆が説得し、説得は2時間に及んだ。

午後9時、O・J・シンプソンはようやく銃をおろし、家族の写真を持って車から降り、逮捕された。

しかし、とんでもない方向に事件は動いていく。裁判はその注目度の高さから全米に中継されることになった。そしてまさにアメリカを二分する「世紀の裁判」となっていった。

まず検察が提出したのは「殺害現場に残された数々の物的証拠」だった。

殺害現場からO・J・シンプソンの血が発見され、彼の車のドアに付着していた血はO・J・シンプソンのものだったが、中のコンソールからは殺されたニコールの血とゴールドマンの血が発見されている。ハンドルからもニコールの血とO・J・シンプソンの血が混ざったものが発見された。

さらにO・J・シンプソンの家から発見された手袋には被害者2人とO・J・シンプソンの血が、そして、寝室で見つかった靴下についていた血はニコールとO・J・シンプソンのものと判明。すべてはDNA型鑑定による確実な証拠だ。

次に検察は犯人のものと思われる足跡について言及。足跡から靴はブルーノ・マリという高級ブランドの物と判明。サイズは30cm。O・J・シンプソンと同じサイズだった。

事件後の捜査でもこの靴は発見されなかったが、検事は「このブランドはアメリカでは40店舗でしか売られていません。そのうちの一つは、O・Jがよく靴を買っていたデパートです」と証言。さらに検察はO・J・シンプソンの殺害動機に関しても、離婚後も繰り返し行われたニコールへのDVの証拠を突きつけた。もちろん他の容疑者の可能性もある前提で捜査は進められていたが、これだけ多くの物的証拠、そしてDVの前科まであり、それらすべてがO・J・シンプソンが犯人であることを物語っているように思われた。

一方、これに対抗するO・J・シンプソン側には最強の弁護団が総勢15名つき、その弁護士費用の総額は5億円とも言われた。

そしてこの裁判をどの地域の裁判所でやるべきかという点も注目されていた。なぜなら、この2年前に白人警官が黒人男性に暴行を加える映像が公開され、それによる黒人住民の大暴動が起きていたからだった。

O・J・シンプソンの事件が発生したのは白人が多いサンタモニカで、通常は事件が起きた地域で裁判を行うのだが、また暴動が起きてしまったらと懸念した検察は黒人の多いダウンタウンで裁判を行うことを決めた。司法当局も人種問題を考慮し、裁判長には日系人のランス・イトウが指名された。

まず弁護団は警察のずさんな捜査をついてきた。現場で血液鑑定士の免許を持っていたのは1人だけでそのほとんどの作業はアシスタントが行っていた。O・J・シンプソンから採取した血液は血液鑑定士に渡された後、アシスタントが熱を通しやすい黒いビニール袋に入れた。その血液で正しい鑑定ができるのか?という。

さらに、採取した血液は8ccとされているが、検査に回された時1.5cc減り6.5ccになっていた。血液は血液鑑定士に渡すためわざわざO・J・シンプソンの自宅へ運ばれており、それは物的証拠となる靴下などをでっちあげるためだったのではないのか?と弁護団は責めた。

続いて弁護団が標的にしたのは殺害現場で捜査にあたったファーマン刑事。実は彼は人種差別主義者だった。弁護団は裁判でカセットテープを提出、それはファーマン刑事が雑誌の取材を受けた時に録音されたもので、黒人差別の言葉があふれていた。

弁護団は捜査時のファーマン刑事の行動にも言及。ファーマン刑事が殺害現場で捜査にあたる様子を収めた写真では、手袋も、足のカバーもつけていなかった。この格好で歩き回ったとしたら、現場に残された足跡は犯人のものとは言えないのではないか?人種差別主義者である彼が、黒人のO・J・シンプソンをおとしいれる為に、証拠を作り上げたのではないか?という視点で弁護団は主張した。

それを裏付けるように、O・J・シンプソンは法廷で現場に残された革手袋をしてみせるがそれはO・J・シンプソンの手には小さく感じた。このシーンは万人の目に焼きついた。

弁護団はファーマン刑事に「あなたは捏造しましたか?」と聞くも「黙秘権を行使します」となぜか全く反論しなかった。

1995年10月3日、O・J・シンプソンは無罪に。ヒーローが無罪とされ、歓喜する人々の一方、白人たちからは疑問の声が上がった。これがまさにアメリカを二分した「世紀の裁判」の結果だった。アメリカの法律では1度無罪と評決されると同じ罪でその者を問う事は出来ない。

だがこの評決の瞬間、法廷で声を上げて泣き崩れたゴールドマンの遺族は不法死亡行為に対する損害賠償請求を行なった。ゴールドマンの父はニコールの遺族とともに民事裁判でO・J・シンプソンを徹底的に糾弾することを決意。

民事裁判では宣誓供述という制度がある。裁判前に被告に法廷以外の場所で宣誓させ質問することが出来るというものなのだが、O・J・シンプソンは、「宣誓証言」を受けざるをえなかった。しかし遺族の弁護士から証拠についての質問をされると「さあ」とだけ答え続け、その後も歯切れの悪い答えばかりで一向に重要な証言は得られなかった。

そして、O・J・シンプソンの供述や原告が集めた証拠が提出され、民事裁判が始まった。1997年3月10日、評決はO・J・シンプソンの敗訴、損害賠償が認められた。評決はO・J・シンプソンに「2人が死亡したことに対して責任がある」とし両遺族に合わせて3350万ドルの賠償金を支払うよう命じた。

民事裁判での損害賠償評決から10年が経過した2007年、 O・J・シンプソンはフロリダ州に移住していた。ニコールとの間にもうけた2人の子供の親権も手に入れ共に暮らしていた。この当時彼は、毎年40万ドルの年金を受け取っていた。NFLと俳優協会の両方から多額の年金を受け取り、悠々自適の生活。

だが一方で、民事裁判で言い渡された賠償命令に全く応じていなかった。実はフロリダ州を移住先に選んだ理由も不動産や資産の差し押さえができない州だったからと言われている。

そんな生活を送っていた時、トーマス・リッチョという友人からの電話が。「君が昔に獲得した数々のトロフィーや記念品を勝手に売りさばいているやつがいるらしい」という。

O・J・シンプソンも心当たりがあり、民事裁判で負けた1997年にすべてを失った彼は
差し押さえされる前に代理人の手を借り現役時代に獲得したトロフィーなどを自宅から運び出していた。だがその後、それらの行方が分からなくなっていたのだ。

調べると、その記念品を持っている人物がラスベガスにいることがわかった。ちょうど友人の結婚式でラスベガスに行くことになっていたO・J・シンプソンはリッチョにその人らと会う約束を取り付けるが、これが彼の人生を破滅へと導くことになる。

2007年9月13日、O・J・シンプソンはラスベガスでリッチョと合流し計画を実行するために仲間を集めていた。O・J・シンプソンは仲間に「俺を守ってくれるか?」「それには『ヒート』を持つ必要があるんだがそれは可能か?」と聞いた。「ヒート」が「銃」を指していることは誰もがわかったという。

まずはホテルでリッチョが記念品を持っている男達と接触。リッチョは客が遅れそうだと先に記念品を部屋に運んでもらい、O・J・シンプソンたちと仲間の5人はホテルの部屋へと向かった。そして部屋の前に来た時O・J・シンプソンは「あいつら(記念品を持っている男達)に銃を見せて威圧してくれ」と指示。

そして「ここにあるのは全部俺の物だ!」と脅し、用意していた段ボール箱や枕カバーに記念品を詰め立ち去ったが、事件の3日後にO・J・シンプソンは逮捕され、共犯者たちも次々逮捕された。

O・J・シンプソン裁判では自分の潔白を主張したが、なんと犯行時のやりとりが録音されていた。親身になってくれていると思っていた友人のリッチョがボイスレコーダーを隠して録音しており、この音声をメディアに売り大金を稼いでいたのだ。

そして犯行の時集めていた仲間であるO・J・シンプソンの友人やその友人の知り合いもタブロイド紙に売ればいい金になると考え、彼らも録音機を携帯。さらに被害者である男性達も警察に通報する前にメディアに一部始終を伝えていた。スクープがあれば大金が入る。結局、彼らにとってO・J・シンプソンは「金のなる木」だったのだ。

O・J・シンプソンは9年〜33年の懲役刑を言い渡された。有罪評決がくだされたのは2008年10月3日。奇しくも元妻殺害の刑事事件で無罪の評決が出された日と同じ日だった。

被害者遺族への賠償金にはほとんど応じようとはせず、支払われたのは13万2千ドルのみ。支払い金額に毎年10%の利子が加算されるため、日本円にして150億円以上が未払い状態となっていた。

そして今年4月10日、前立腺ガンにより死去したことをO・J・シンプソンの家族がSNSに投稿。ゴールドマンの遺族は「息子がいなくなったことをさらに思い出させるだけのものだ」とコメントを発表。今後は、O・J・シンプソンの代理人と賠償金支払に関して話し合いが行われていくという。