なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

島で出迎えてくれたのは

当時学徒兵だった西さんの絶望感とは裏腹に、出迎えてくれた兵士たちは皆、笑顔で、元気いっぱいだったのだ。

「硫黄島は陸軍と海軍が進出していましたが、島南部の千鳥飛行場で出迎えてくれた兵隊たちは皆、はつらつとしていました。上空から島を見た私の(絶望的な)感想と、在島の兵隊たちの態度は全く別でした。敗北感がみじんもないんです。私は彼らと接して、生き返ったような気持ちになりました。陸軍の私たちが拠点としたテントに、在島の海軍航空隊の整備員たちがやってきて、握手をしてね。もうその途端から戦友になりましたよ。非常にもう親しく寄ってきましてね。陸軍航空隊の硫黄島派遣は私たちが初めてでした。われわれ陸軍の航空隊に加勢に来てくれたんです。硫黄島では陸軍と海軍が島の防衛戦術を巡って対立していたと伝えられていますが、それは上層部の話です」

大戦末期の戦場である硫黄島は、当時としては「老兵」と言われる30代や40代の再応召兵が多かった。妻や子供と暮らす普通のお父さんたちが全国から集められたのだ。

「私たち整備員が硫黄島に着いた次の日のことです。操縦士たちが陸軍戦闘機の『隼』を操縦して島に到着し、合流しました。そのとき、在島の兵士たちが隼を見に集まってきました。40、50人いましたね。みんな自分から見たら『おじさん』と呼べる年配の人たちでした。そして喜んでこう言うんです。『あんたたちが来てくれたから、もうこの島は大丈夫だ』って。私はそれを聞いてね、困ったなあと。持っていった隼は年を取ったおんぼろの旧式でしたから。彼らは何にも知らないわけです。彼らのうれしそうな顔を見てね、逆に悲しくなりましたねえ。期待が外れるんかなあって」

そして西さんの不安は的中することになる。

「空襲のたびにね、隼は飛び立っていくんですよ。1機に対して向こうは数機で攻撃してくる。太刀打ちできないですよ。まるでツバメとタカの戦いですよ。私が島にいた間、隼が敵機に被害を与えたのは1回しかなかったですね。敵機のエンジンが火を噴いたという損害だけです。それ以外は何もなかったです。1機も落とせなかったんです」

敵航空部隊に損害を与えられなかったのは西さんの部隊だけではなかった。

「米爆撃機の高度は7000〜8000メートルでした。高射砲が撃つところを見ましたが、届いていないようでした。だから全然使っていなかった。ただ、そこに存在しているというだけでしたね。あんな高高度から来る爆撃機の編隊に届くはずがないんですよ。とても貧弱な高射砲で相手にもならなかったし、もう悠々と頭の上を通って行きましたなあ。編隊も崩さないでねえ。もう敵に任せっきり。勇ましい光景はなかったです。そういえば夜中にわれわれの頭の上を通過していったことが一度か二度ありました。あれは今、東京に行くんだなって分かるんですよ。私の姉が東京にいましたから、やられなければいいな、と思いましたねえ」

硫黄島戦の生還者の記録によると、兵士たちは「我らなくして本土なし」「我ら太平洋の防波堤にならん」という思いだったという。西さんも、サイパンよりも格段に本土に近い硫黄島が陥落すれば本土空襲が激化することは「分かりきっていた。百も承知だった」と振り返った。

「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃